浦和聖書バプテスト教会

《主に拒まれたと思える時は》

2016-03-20

それなのに、あなたは私たちを拒み、卑しめられました。あなたはもはや・・・    (詩篇44:9)
 
 長い信仰生涯には、時には、神に拒まれていると思える時があります。そんな時、どうしたらよいのでしょう。原因が自分にあると分かれば悔い改めることが出来ます。しかし、それすら思い当たることがない場合は。◇この詩篇著者がぶつかったのは、まさにそのような課題なのです。彼らは<先祖たちが語ってくれたこと>を忠実に踏みしめ、自分の力に頼まず、主の救いにしっかり依り頼んで生きてきたのです(1~8)。信仰者としての最も基本的な姿勢を貫いてきたと言ってもよいでしょう。ですから当然、先祖たちが預かった主の恵みに自分たちも預かれると信じていたのです。◇ところが、今置かれている現実は、まったくそうではないのです(9~16)。敵の虐げを受け、主の臨在が見えなくなってしまい、彼らは、主に拒まれているとしか思えない状況に置かれたのです。人間的な言い方になりますが、不信に陥る正当な理由があると言えなくもありません。主イエスの十字架上でのあのことばを想い起します(マタイ27:46)。しかし、このことばを不信仰から出たと捉える人はひとりもいないでしょう。◇では、こんな時、彼らはどうしたのでしょう。先ず第一に、主を忘れず、主の約束を無にするようなことはしなかったのです(17~19)。彼らの主に寄せる信頼は揺るがなかったのです。さらに加えて素晴しいのは、彼らは、生ける主を呼び求めています(22、23)。信仰に踏みとどまるだけでなく、自分たちの矛盾した現実に主が介入してくださるように強く呼び求めているのです。私たちが実践しなければならないのは、むしろこの点ではないでしょうか。生ける主は生ける信仰に臨まれるのです。神は死んだ者の神ではありません。生きている者の神なのです(マタイ22:31)。アーメン


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