浦和聖書バプテスト教会

《栄光を与えるために》

2015-01-11

 

見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。(イザヤ48:10)

 

<悩みの炉>とは、文脈から見て「バビロン捕囚BC586~」という歴史的、国家的な試みを指していることが分かります(20)。◇これは、ユダヤの人々にとって、この上もない悪いことです。国が滅ぼされ、神を信じている者も信じてない者も一緒くたに捕囚とされてしまうのですから。しかし、ここにも、神の善なる計画があったのです。これは人の目には見えないことですが、愛の神であられる主が、ご自分の民に「悪いこと」をなさる筈はないのです。神の意図されていたことは、ご自分の民をその栄光にふさわしく練りきよめるためだったのです。銀は火できよめられ、人は悩みできよめられるのです。◇もし汚れたままで神の栄光を受けるなら、私たちはその栄光で神の名を汚してしまうでしょう。人は喜ぶかも知れませんが、神の名は失墜してしまいます。<どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。>と主は問われます。栄光を受けるためには、それにふさわしい者に造り変えられる必要があるのです。<悩みの炉>ですから、それは人には苦しいことですが、その苦しみの中にはこのような神の善なる計画があることを決して忘れてはなりません。<わたしはわたしの栄光を他の者には与えない。>と主は言われるのです。◇では、練りきよめられるとはどういうことなのでしょうか。私たちは、きよさということを感覚的に捉えようとする傾向がありますが、最も大切な観点は、主のみ教えに喜びをもって従えるようになることなのです(17~19)。主の命令に耳を傾けさえすれば<しあわせは川のように><正義は海の波のように>おし寄せてくる、と主は言われます。こうなると、主の栄光と私のしあわせとの間に、一分の隙間もなくなるのです。これがきよいということです。
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