浦和聖書バプテスト教会

《災いをどう受けとめるか》

2016-04-17

 わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、同じように滅びます。(ルカ13:3)

 注目したいのは、主イエスが事件そのものには一切触れず、報告を持ってきた<ある人たち>の何かを問題にしている点です(3,5)。◇彼らの心の中にある物事の捉え方、考え方、そこから生じる生き方、そこに主はメスを入れておられるのです。ひとことで言うと、彼らの心を占めていたのは因果応報の考え方でした。即ち『災難にあった人々は特に罪深いからだ』とどこかで考えていたのです。この考え方は全面的に否定されるべきではありません(ガラテヤ6:7~10)。しかし、この見方を、災いを免れた私が災いを受けた人に向けると、なんと冷酷なさばきの目になることでしょうか。主が問題にしておられるのは、まさにこの点なのです。◇関連して次のことが浮上してきます。彼らは起こった悲惨な出来事を3人称複数形で捉えています。「あのひとたち」であって「私」ではないのです。そこには、物事を客観的に正確に捉える目はあっても、その悲惨さ残酷さを感じ取る心が乏しいのです。どこか「他人事」なのです。これは議論するのには適しているでしょうが、愛や思いやりは生まれてきません。これも大きな問題であると言わねばなりません。必ずしも、正しい理解が同情や助けを産むとは限らないのです。◇物事の理解は、人称が近ければ近いほど本物になります。もし殺された人の中に身内が一人でもいたら、こんな冷静な報告などしていられないでしょう。「知る」とか「理解する」ということを、この姿勢に置き換えねばなりません。主が悔い改めを迫っている理由がここにあります。悔い改めは1人称単数形でなければ絶対に成り立ちません。外界の他人事が、内面の私の事になるのです。私たちは、他の人の災いを見て悔い改める心を持つクリスチャンにならねばなりません。


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