浦和聖書バプテスト教会

《祈りーゆだねること》

2016-09-18

母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」(ヨハネ2:5)

 以前にもお話したことですが、ここでのマリヤの振舞に、祈りの最も本質的で素晴しい姿が期せずして現われているのです。◇先ずマリヤは、ぶどう酒がなくなったとき、この困った問題をまっすぐにイエスのところに持っていきました(2)。これは祈りのスタートですが、これさえ覚束ないのが私たちの正直な現実ではないでしょうか。責任が重ければ重いほど、かえって祈りを失うということが起こり得るのです。この点で、何気ない彼女の振舞は、祈りの本質を穿っています。祈りは本来、親しみの中で気さくになされるものなのです。それはきわめて日常的な神との対話なのです。◇第二にマリヤが、主イエスに必要を伝えただけで、あとは何もしてないことに注意しなければなりません。イエスに対して何の指示も要求もしてないのです。必要を伝えるだけで、それがどんな方法で、どのように満たされていくかには一切ふれてないのです。私たちはこの彼女の静と黙を、v4の主の一見冷たく感じられることばへの反応としてではなく、v5との関連で捉えねばなりません。彼女は方向転換してるのでもなく、願いが受け入れられなかったと諦めているのでもないのです。◇それどころか、v5には彼女の主イエスに寄せる揺るぎない信頼の姿が現われているではありませんか。「主が何とかしてくださる」この信頼がなければ、この言葉は決して出てきません。かと言って、何もしないのでもありません。「あの方が言われることは何でもする」なのです。水を汲めと言われたら、それが人の合理的判断で理解しがたいことであってもそうするのです。すると、主の恵み深き御わざは、人の分別を越えたところで仕組まれていくのです。祈りは主の主権の下で聞かれているのです。ハレルヤ!


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