浦和聖書バプテスト教会

《行いでなく信仰によって》

2010-11-15

  人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。  (ローマ3:28)

 主イエスが十字架につくまでのイスラエルは、ほとんどの人が「律法を行うことによって救われる」と考えていました。代表するのがパリサイ人でした。◇実は、この書を記したパウロも、典型的なパリサイ人でした(ピリピ3:3~6)。ところが主イエスによって救われて分かったことは、律法はかえって罪を示すものだ、という神の御旨です(ローマ3:20)。律法は決して悪いものではありませんが、それを行うことによって救われると考えていたところに、彼らの致命的な誤りがあったのです。律法を行うことで救われるなら、主イエスも主イエスの十字架も必要なくなるのです。◇しかしこの考えは、私たち日本人の心にもあるのではないでしょうか。善いことをしていれば、死んだ後きっとよいところに行ける。こう考えている人は多いのです。日本人の楽観主義です。よもや自分が地獄に行くなどとは露だに考えていないのです。私たちは改めて、聖書の示す人間の真実な姿に目を留めねばなりません。<律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められない>のです。問題は、私のすべてを神が義と認めてくださるかどうか、なのです。神が義と認めてくださらない者が天の御国に入ることは絶対にないからです。◇そこで信仰です。すでに御子イエス・キリストによって贖いが済んでいるのですから、これに拠り頼む者を神は救われるのです。これを神がは定められたのです。ですから信仰は、神の存在を認めること以上のことを意味しています。それは、御子の贖い、即ち十字架の死と、死からの復活を受け入れることなのです。受け入れた時、キリストの義が私に転嫁されるのです。


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