浦和聖書バプテスト教会

《赦されること・赦すこと》

2010-02-26

  「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、ばあい、何度まで赦すべきでしょうか。(マタイ18:21)

 ペテロのこの素朴な質問に対して、主イエスは一つのたとえ話をしてくださいました。◇このたとえ話でまず第一に覚えたいことは、私たち人間は、神と人と、両方の係わりの中に生かされているということです。近代人はこれを、神との係わりを否定して、人との係わりだけにしてしまいました。そこに、現代の様々な病的な現象の源があると言わねばなりません。神との交わりを否定したとき、私たちは、人との係わりをどこに位置づけてよいか分からなくなってしまったのです。◇では、神様はどんな係わりの中に私たちを置いておられるのでしょうか。それは圧倒的な赦しです。主イエスの十字架の死は、神様の赦しそのものです。罪はさばかれねばなりません。神様は、ご自分のかけがえのない御子に身代わりのさばきを受けさせることによって、私たちの罪をすべて赦されたのです。すでに私たちは赦され、借金は免除されているのです。この神様のあわれみの中に生きていくことは、私たちのたましいにとって最も重要なことです。赦しを知らないたましいは、不安と恐れを背負い続けていかねばなりません。これが、神様との交わりを断ち切った現代人の姿なのです。◇さらに、赦されていることを忘れているたましいは、決して赦すことができません。このたとえのしもべがそれを示しています。彼は一万タラントを赦されているのに百デナリを赦すことができないのです。百デナリとは、私たちの現実的な金額です。しかし、現実的であればこそ、かえって古い罪の性質に動かされてしまうということがあるのではないでしょうか。仲間をつかまえ、首を絞めて、「借金を返せ。」といきり立っている姿をどう思うでしょうか。

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