浦和聖書バプテスト教会

「信仰によるいやし」

2017-06-25

イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。「わたしの心だ。きよくなれ。」

聖句:マルコ1:41 奨励者:川島 実成

ツァラアトに冒された病人は、本来、一生そのままでした。けれども、そこからいやされているのです。何故なのでしょうか?
この病は、祭司に「汚れている」と宣言される病でした(レビ記13:3)。これは、「病気=罪」という意味ではありません。けれどもさわればうつると考えられ、病人は郊外に隔離され、一般的に死人と見なされたのです。そして、病がいやされるのは死者が復活するようなものだと考えられていました。けれども、このような中にあっても、病人はイエスの評判を聞いた時、真っ先に会いに来たのです。ここに彼の信仰があるのです。彼はイエスにはいやす力があると完全に信じました。これは、医者のように病をいやせる人として信じたのではありません。間違いなく神の御子であると信じたのです。だからこそ、ひざまずいて〈お心一つで、私はきよしていただけます。〉(40節)と言うことができたのです。
イエスはこの信仰に対して、①深くあわれみ、②手で汚れた部分をさわり、③みことばを持っていやされました。人々がさわればうつると考えていたのに、あえて病にふれていやされたのです。これが、イエスの愛なのです。何もこれはこの病人に対してだけではありません。罪という病にかかり、死を迎えるしかない私たちに対しても同じようになさるのです。イエスは信じる者の罪という汚れた病に手をふれてその罪を担い、変わりにご自分のきよさを信じる者に与えてくださるのです(ローマ5:18-19)。そして、〈わたしの心だ。きよくなれ。〉(41節)とみことばを持っていやしてくださるのです。これが十字架でなされた御業なのです。
イエスはご自分を信じる者をこのように愛し、その罪を引き受けてくださるのです。こうやって、人間は罪という病からいやされて、死から救われるのです。このような唯一無二の救い主を信じて、罪という病から救われましょう。


最近のメッセージ

年月別メッセージ

アクセスカウンター

  • 今日:141   昨日:339
  • Total:174636   Online User: 1