浦和聖書バプテスト教会

「本物の証」

2017-07-02

ところが、彼は出て行って、この出来事をふれ回り、言い広め始めた。そのためイエスは表立って町の中に入ることができず、町はずれの寂しい所におられた。

聖句:マルコ1:45 奨励者:川島 実成

病人はいやされた奇跡を人々に証しましたが、それによりイエスは宣教ができませんでした。この事から二つの点が教えられます。
第一に、証にはイエスを締めしてしまう危険性があるという点です。病がいやされた時、イエスは〈「気をつけて、だれにも何も言わないようにしなさい。」〉(44節)と命じました。ところが、病人は〈この出来事をふれ回り、言い広め始めた〉(45節)のです。彼はみことばに背いて、奇跡を人々に証したのです。彼はいやされた喜びのあまり、みことばよりも奇跡を優先しました。そうした時、イエスは締め出され〈町はずれの寂しい所〉に追いやられたのです。この間違いを、実に多くのキリスト教会が行っています。奇跡的な体験が強調され、それが証のように捉えられています。しかしイエスを締め出す証は、どんなものでも本物ではないのです。
第二に、証とはイエスが中心におられ、みことばの通りに神に感謝することです。イエスは〈人々へのあかしのために、モーセが命じた物を持って、あなたのきよめの供え物をしなさい。〉と言われ、神に感謝をするように命じたのです。これが、人々への証となるのです。ですから、例えいやしという奇跡であっても、それが前面に出てイエスを町の外においやる証は、宣教の妨害でしかないのです。ではどうしたら良いのでしょうか?イエスは〈全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい。〉(マルコ16:15)と言われます。このみことばの通りに、罪の滅びから救ってくださった神に感謝し、この良き知らせを伝えるのが本物の証なのです。こうした時、イエスは証の中心に来られるのです。
私たちの証はどうでしょうか?本物の証は、イエスを外に締め出すことはありません。イエスが中心におられ宣教につながるのです。神への感謝がにじみ出た本物の証をいたしましょう。


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