浦和聖書バプテスト教会

1月, 1970年

《他人事じゃない》

1970-01-01

 ナタンはダビデに言った。「あなたがその男です。   (Ⅱサムエル記12:7)

 ここでのダビデの姿は、罪を自分の罪と認めることがいかにむずかしいかを物語っています。◇先ず、ダビデが自分の罪をどのように隠したかを見てみましょう。<喪が明けると>(11:27)とありますように、正式な結婚を経てバテ・シェバを迎え入れています。公衆の目には、戦死した部下の妻を引き取った責任ある王、と映るでしょう。むしろ美談です。ダビデの罪の真実は、人の目にはこのように巧に隠されたのです。しかし、神様の目をごまかすことは出来ません。預言者ナタンが遣わされたのです。◇注意したいことは、ナタンが最初から直接ダビデの罪を指摘しないで、ひとつのたとえ話(1~4)から始めている点です。途中でダビデは、このとんでもない男に<激しい怒りを燃やし>ています(5)。義憤です。ダビデの正義感が強く刺激されたのです。私たちはこれを、ダビデの隠されている罪が反応したと見てもよいでしょう。同じような例を、イエスを裏切ったユダにも見ます(ヨハネ12:4~6)。人は罪を隠し持ったままでも、正義や愛をいくらでも主張できるのです。クリーンな政治をひと一倍主張する政治家が実は多くの不正をなしていた、というような例はいくらでもあります。◇だから、他人事ではないのです。「あなたがその男です。」自分の罪として対峙しなければ何も始まらないのです。ここでダビデはあくまで罪を隠し、王の権威でもってナタンを処刑することだってできたのです。しかしダビデの素晴らしいところは、ここで逃げなかったのです(13)。「私は主に対して罪を犯した。」この悔い改めが、罪の結果に苦しみつつも後の偉大な王ダビデを生み出していくのです。私たちは、詩篇51に、この時のダビデの悔い改めの祈りを詳しく見ることができます。

《主に従いつくす信仰》

1970-01-01

  イスラエルは、・・・主がイスラエルに行われたすべてのわざを知っていた長老たちの生きている間、主に仕えていた。  (ヨシュア記24:31)

 昨今、クリスチャンが教会生活から離れて行く傾向があります。めいめいが正しいと思う事を行なっているのです。これは、主に従いつくす信仰ではありません。

◇イスラエルの民はヨシュアと長老達の死後、堕落してしまいました。従いつくしたのはヨシュアと長老達の世代だけです。それ以後、士師の時代では主を捨て偶像に従っていきました。どうして、ヨシュア達は主に従いつくす事が出来たのでしょうか?

◇第一に、ヨシュアや長老達は、主の行なったみわざを、主のみわざとして見たからです。v31〈すべてのわざ〉とあります。彼らは、自分に対して起こった一つ一つの奇跡(出エジプト・荒野の40年間の守り)を見て、主が働かれたみわざとしました。

◇第二に、彼らは主の行なったみわざを信仰の体験として受け止めたからです。v31〈すべてのわざを知っていた〉とあります。この知るとは、知識的に知ったという言葉ではありません。自らの体験として知ったという意味です。彼らは、主が行なった全てのわざを自分に起こった神の奇跡として体験したのです。主のみわざを、みわざとして見て、自分の信仰の体験としたからこそ、その信仰は主に従いつくす信仰と成長したのです。

◇私達は主のみわざを偶然にしていないでしょうか?心が何か(偶像)に捕らわれているなら、みわざは分かりません。主に心を向けて、「主に従いつくす」キリスト者と成りたいものです。(文:実成先生)

《先に救われた者となる》

1970-01-01

 「主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます。」 (使徒16:31)

 救いは主イエス・キリストを信じることによって与えられますが、信じるということはまったく個人的なものです。代理は利きません。信じてあげることも出来ませんし、信じてもらうことも出来ないのです。◇このことを踏まえてこの聖句を理解すると、これは決して、私が信じれば私の家族も自動的に救われる、という意味ではないことが分かります。私を通して、キリストの救いが家族の一人ひとりに伝わっていく必要があるのです。福音を聞くことなしに救われる人はひとりもいません。ピリピの看守の場合も、短時間のうちではありますが、それが行なわれていることを確認することが出来ます(32)。家族全員が福音を聞いたのです。◇このことから先ず第一に言えることは、家族を救うためにも先ず私が救われた者になる必要がある、ということです。自分が救われてないのに、どうして他の人を救いに導くことが出来るでしょう。もしピリピの看守が信じることを拒んだら、彼の家族は誰も救われないのです。当たり前のことです。救いは、先に救われた者を通して次の者に伝達されていくのです。これが神様の方法です。これが<あなたもあなたの家族も>です。救いの川は、人から人へと流れていくのです。◇ですから、私個人は、自分の人生だけに責任を負っている存在ではないのです。自分だけなら、自分が天の御国に入れればそれでよいでしょう。しかし家族は滅びの中に取り残されます(ヨハネ3:18)。愛なる神が、そんな不条理なことを許されるはずがありません。私は、私の家族を救うという責任を負っているのです。だから先ず、私が福音を受け入れ、福音に生き始めねばなりません。ローマ10:11~15。救いの流れを、この私でとめてしまってはならないのです。

《神の時・人の時》

1970-01-01

  天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。   (伝道者の書3:1)

 この地上の全ての事柄に神様の主権的な時があることを、どれだけの人が認めているでしょうか。これは、少し考えてみれば分かることです。◇<生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。>(2)とあります。だれも自分で時間を定めて生まれてきた人はいませんし、時を選んで死んでいく人もいません。 たとえ、春に花(桜)の下で死んで生きたいと願っても、そのとおりになるとは限りません。実は、生死という運命的な事柄だけでなく、私たちの<すべての営み>に、このようにあらかじめ定められた神の時があるのです。◇ところが人間は、この神の時を無視し、それを自分の時としてしまいました。これも罪人のひとつの特徴と言わねばなりません。たとえば<死ぬのに時がある。>と言われていますが、人はこの時を自分勝手に定めてしまいます。自殺です。死の時を自由に定めることができると言うなら、人は永遠に生きることもできる筈です。<植えるのに時があり、>と言われていますが、春の種蒔きを2ヶ月早めたらどうでしょう。種は凍り付いて死滅してしまうでしょう。 2~3日の時間の自由を、あたかも永遠の自由のように思い込んでいるところに、人間の愚かさと傲慢さがあるのです。◇私たちは、神の時を見定め、神の時を生きなければなりません。v7には<黙っているのに時があり、話をするのに時がある。>と言われています。話したり黙ったりすることにさえ、神の時があるのです。v11には<神のなさることは、すべて時にかなって美しい。>とあります。神の時が私の時と一致するとき、人生は祝福で満ちていくのです。神の時を取り違えていないでしょうか。

《孤児にはしない》

1970-01-01

  

  わたしは、あなた方を捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻ってくるのです。   (ヨハネ14:18)

 主イエスが十字架につけられ,人々の手によって殺されてしまう。これは、弟子たちには永遠の別離のように思えたのでした。◇どんな形をとろうと,確かに,死はこの世のあらゆる係わりを切断してしまいます。子弟の関係も,親子の関係も,愛情で結ばれた関係も、死はすべてを永遠に断ち切ってしまうのです。主イエスも,この地上的なつながりの限界をあからさまに伝えておられます。<いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。>◇しかし、地上のあらゆる係わりが切れてしまっても,ひとつだけ、決して断ち切られることのない係わりがあります。それが信仰による救いの関係です。<わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。>ひとたび救いの関係に入った者は、死さえもそれを覆すことはできないのです。即ち、主イエスの姿は見ることができなくても,弟子たちがポツンと地上に取り残されるようには決してならない。<わたしは、あなたがたのところに戻ってくるのです。>と主は言われたのです。◇まず、よみがえりがあります。主は死に勝利して、再び弟子たちのところに戻ってこられたのです。さらに先週学んだように,主イエスが天に帰られた後には,聖霊の降臨が起こります。聖霊は<もうひとりの助け主>となって、信じる者たちに臨まれたのです。ですから、信じる者たちが神様との交わりを失って、ポツンと地上に取り残されるようなことは,決してないのです。今日もまったく同じです。◇しかし、それなのに、なんと多くの人が、捨てられた孤児のように生きていることでしょうか。

《何をすれば救われるか》

1970-01-01

  私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」 (ルカ18:18)

 私たちは、この質問が非常にまじめな質問であったことを感じ取ります。彼は、主イエスをからかったり、ためしたりしているのではありません。この問いかけには、何か真剣なものが感じられます。◇まず彼が、永遠のいのちについてではなく、それをどうしたら<自分のものとして受けることができるか>を尋ねていることに留意しましょう。宗教的な課題は、それを客観的に論ずるだけで済ませるわけにはいきません。必ず自分がかかわってこなければならないのです。即ち、自分がどう生きていくのか、どのように死んでいくのか、という自分自身の問題なのです。この人物が、若くして(マタイ19:20)このような根源的な課題に突き当たったことは、大変意義あることといわねばなりません。◇それにしても、なぜ彼が、若くしてこのような根源的な人生の課題に気づいたのでしょうか。聖書の示してるところに従えば、彼は若くして役人であり、しかも、大変な金持ちであったということです。恐らく彼は、青年のうちに、もうそれなりの人生の目標に到達していたのです。人は、それなりの人生の目標を達成すると、より根源的な人生の問いにぶつかるようです。社会的に責任を果たし終えた中高年の人たちが、にわかに宗教的な課題に悩み始めるというのは、このことを物語っているのではないでしょうか。私たちが、日ごろ、人生の目標だと考えていることは、本当は最終的な目標ではないのかも知れません。少なくとも、大切な自分の人生を「私は何をしたら、金持ちになれるでしょうか。」という類のレベルで生きてしまわないようにしなければなりません。根源的な目標を見失わないようにしたいものです。


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