浦和聖書バプテスト教会

2月, 2002年

《まことの救い主とは》

2002-02-24

 

あなたがたに言いますが、それと同じように、ひとりの罪人が悔い改めるなら、悔い改める必要のない九十九人の正しい人にまさる喜びが天にあるのです。

(ルカ15:7)

 

このたとえ話は、主イエスの自己紹介ともいえるでしょう。◇この羊飼いの素晴らしいところのひとつは、<いなくなった一匹>がだれであるか知っていることです。羊の群れに出会った人なら分かることでしょうが、羊はみんな同じ顔をしていて、一匹一匹の区別をつけるのはとても無理です。しかし、この羊飼いは、だれがいなくなったか、ちゃんと知っておられるのです。ということは、他の99匹の羊に関しても同じです。私たちは、あらためて、ひとりひとりが主に覚えられている存在であることを知らねばなりません。◇第二の素晴らしいところは、いなくなったその一匹を捜し出してくださることです。これには、どれほどの犠牲が伴うでしょうか。人は「たった一匹のために?」と考えるでしょう。しかし、この羊飼いはまさにその一匹を捜し出してくださるのです。実は、私たちもそのようにして捜し出されたのではないでしょうか(ヨハネ15:16)。私たちはみな、かつては罪の中をさまよっていた者だったのです(イザヤ53:6)。◇さらに素晴らしい点は、その一匹が見つかったときには、大きな喜びを持って祝福してくださいます(6)。これも、人は「たった一匹のために?」と疑問に思うでしょう。しかし、この羊飼いは、この喜びを知っていてくださるのです。<九十九人の正しい人にまさる喜びが天にある>と主は言っておられます。ひとりの罪人が悔い改めて神様に立ちかえることは、まさに、天の喜びなのです。私たちも、このような喜びのうちに天に迎えられているのです。ハレルヤ。

《主よ。私ですか?》

2002-02-10

 

「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」(使徒9:5)

 

クリスチャンを迫害していたパウロは、その意識の中には、神に逆らっているという思いはまったくなかったでしょう。否、むしろ、自分こそ神のみこころ心を行っているという自負と確信があったと思われます。◇私たちはここでまず、人間の持っている正義感の恐ろしさに気づかねばなりません。<なおも主の弟子たちに対する脅かしと迫害の意に燃えて>(1)とありますが、これが盲目の姿であり、人間の不幸と悲劇を作り出す要因になっているのです。パウロはどれだけのクリスチャンを殺したのでしょう。人類の悲劇のほとんどが、ある特定の人々の<意に燃えた>正義感によって引き起こされているのです。もし主イエスが彼にストップをかけなかったら、彼はこのまま人生を突っ走っていったでしょう。恐ろしいことです。◇ですから、救われるということは、誤った人生をもうこれ以上続けないように、愛の神様がストップをかけることでもあるのです。まさにパウロは、光に打たれて倒れねばならなかったといえるでしょう。もうそれ以上、一歩も前に進めなくなる必要があったのです。そうでもしなければ<意に燃えた>自負と信念は砕けなかったからです。パウロが三日間も飲み食いできず、ひたすら祈るという苦悩の時を過ごさねばならなかった理由がここにあるのです。◇この三日間「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」という主のみことばが、どれだけ重くのしかかってきたことでしょう。主を十字架につけて殺したのは、他の誰でもない。この私なのだ。この思いが、彼のたましいを根底から覆し、彼は新しく生まれ変わっていくのです。私たちも、「主よ。私ですか?」と問わねばならないのではないでしょうか。

《パウロの回心》

2002-02-03

 

するとただちに、サウロの目からうろこのような物が落ちて、目が見えるようになった。(使徒9:18)

 

クリスチャンならだれでもクリスチャン人生に出発した時があるわけですが、パウロほど劇的な出発をした人はいないでしょう。◇彼はもともと、熱心なユダヤ教徒でした。その頃のことを述懐している個所が聖書の中にあります(ピリピ3:4~6)。この使徒9章でもそうですが、彼はクリスチャンたちを捕縛し処刑するためにダマスコに向かったのです。

事件はダマスコの近くで起こりました。突然、天からの光が彼を打ち、彼は地に倒れてしまいます。そして、よみがえりの主のみ声を聞くのです。「サウロ、サウロ。なぜわたしを迫害するのか。」「わたしは、あなたが迫害しているイエスである。」◇この時彼は、まったく目が見えなくなってしまいます。<彼は三日の間、目が見えず、また飲み食いもしなかった。>(9)と記されています。この三日間、彼は何をしていたのでしょう。<そこで、彼は祈っています。>(11)とあります。まちがいなく、彼はこの三日間、自分のこれまでの人生を省みつつ、徹底的な悔い改めをしたのでしょう。三日間というのも意味があるでしょう。主イエスも十字架の死から三日目によみがえられたのです。◇三日目にアナニヤという人が神から遣わされます。彼に祈ってもらうと、パウロの目からうろこのような物が落ちて、再び見えるようになります。私たちは、これを単に身体的な出来事だけで済ませるわけにはいきません。否、むしろ、パウロの心の中で起こった出来事にこそ、はるかに重要な意味があるのです。パウロはここで新しく生まれ変わります。彼は<ただちに、諸会堂で、イエスは神の子であると宣べ伝え始めた>(20)のです。まさに180度の回心です。


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