浦和聖書バプテスト教会

3月, 2002年

《疑うことと信じること》

2002-03-31

イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」  (ヨハネ20:29)

 

クリスチャンがみんな集まるときには、いっしょにいるようにしたほうが良いようです。トマスは、よみがえった主イエスが現れたとき、ひとりだけそこにいませんでした。そのため、一週間、彼がどれだけ信仰による疎外感を味わったことでしょうか。◇「主イエスはよみがえった。」とみんなが喜びと驚きに沸き立っている中で、ひとりだけぽつんと「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と、信じられない苦しみの中に取り残されていなければならなかったのです。しかし、トマスのこの姿こそ、科学的な実証を経なければ何も信じられない現代人の姿ではないでしょうか。◇こういうトマスために、まさに彼ひとりのために、八日後に、主はもう一度現れてくださいます。主は、今度は他の弟子たちには目もくれず、まっすぐトマスに向かいます。そして、釘に打たれた手と槍に刺されたわきを彼に示し、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」とやさしく諭してくださったのです。トマスは「私の主。私の神。」と言っただけで、後は絶句してしまいます。◇トマスは私たちの代表です。もしトマスと同じ経験をしなければ信じられないのなら、主イエスは今でもひとりひとりのところに来て、釘と槍の跡を示して歩かねばならないでしょう。主イエスがなぜトマスひとりのために現れてくださったかというと、この地上にはトマスのような人がたくさんいるからです。私もそのひとりです。だから主は、トマスを通して、実証主義に毒されている私たちを諭しておられるのです。< 見ずに信じる者は幸いです。>

《愛が先に在る》

2002-03-24

わたしの目には、あなたは高価で尊い。わたしはあなたを愛している。 (イザヤ 43:4)

 

もうかれこれ20数年前になりますが、開拓伝道を始めた当初、教会の経済を支えるために職安に仕事捜しにいったことがあります。その時の失望感は今でも忘れることはできませんが、係りの人に尋ねられたことは、「何ができますか?」と「どんな資格を持ってますか?」でした。私は、小さな声で「なにもありません。」と答えるしかありませんでした。仕方のないことかもしれませんが、世の中では、人の価値は今でもこんな尺度で測られているのです。◇しかし、今日のみことばは、絶対にこの延長上で解釈してはなりません。神様は、何ができるか、どんな資格があるか、で私たちを見てはおられないのです。もしこの角度から神様に審査されたら、だれが神様の恵みに預かることができるでしょうか。私たちが、<わたしの目には、あなたは高価で尊い。>と言われるのは、主が私たちを愛しているからなのです。愛が先に在るのです。これは、少しは、人間の場合に当てはめて説明できるでしょう。我が子を、何かできるからという理由で愛している親はいないでしょう。もしそうなら、何もできない子は、親から捨てられねばならないのです。愛が先に在るのです。愛しているから、高価で尊いのです。◇ですから、私たち人間にとって一番大切なことは、先ず神様の愛を受け入れることなのです。何ができるか、の延長上で人生を考えている人は、どうしても、神様に認めてもらおうとしてしまいます。そこに様々な心の葛藤が生じているのです。これも、少しは、人間の親子関係で説明できるでしょう。要するに、親にあまりにも「できる子」を強要されてしまうと、そのひずみも大きいのです。まず愛です。愛が先にあるのです。

《解決されてない罪》

2002-03-17

すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。 (ルカ 15:28)

 

この放蕩息子のたとえ話は、兄の姿が語られることによって、より意義深いものになっています。主イエスは、この兄の姿をもって、暗にパリサイ人(2)を批判しているのです。◇物語のほうに目を向けましょう。長いこと行方知れずになっていた弟が、挫折してボロボロになって返ってきたのに、この兄はどうして喜べなかったのでしょう。ここに、この模範的な兄(29)の抱えている罪が露顕しているのです。さかのぼって、この弟が家を飛び出したのも、この兄のコンプレックスが大きな要因になっていたことは疑う余地がありません。この兄の罪のコンプレックスは、彼が優位な立場にあるときは隠れていて見えませんでしたが、今ちょっと立場が逆になっただけで噴出してくるのです。彼は、おこって、家にはいろうともしませんでした。◇心理学のほうではこれを旧約聖書の物語(創世記4:1~16)に因んでカインコンプレックスと呼んでいますが、これはだれにでもある感情ではないでしょうか。自分をこの兄の立場において見るとよく分かります。この日も父親の命に従い一日中畑で仕事をしてきました。土に汚れ、疲れた体で返ってきたところが、このお祭り騒ぎです。たいていの人が頭にくるでしょう。この兄は、一挙に父親に対する不満もぶちまけています(29.30)。◇私たちはここに、最も恵まれたところにおり、最も恵まれたものに預かってい、しかも本人も模範的な歩みができているのに、相変わらず罪の支配に動かされている人の姿を見ます。一方は、罪のゆえにボロボロになるような挫折を経験しているのに罪の悔い改めにみちびかれ、他方は、模範的な歩みをしてるのに未だ罪の支配の中にあるのです。考えさせられます。

《挫折と自覚》

2002-03-10

 

この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」(ルカ 15:24)

 

落ちるところまで落ちてしまった放蕩息子ですが、その後の歩みには、私たちにも大いに学ぶべきものがあります。

◇v17に<しかし、我に返ったとき彼は…>と出てきます。彼は自分を取り戻すことができたのです。ということは、今までの彼は、自分ではなかったということになります。自分でありながら自分でない。恐らく彼は、自分でも何がなんだか分からないうちに、いなご豆を食べねばならなくなってしまったのでしょう。罪に中に生きてる人は、自分なのに自分を生きることができないのです。◇<我に返ったとき>この息子は、三つの大切なことを自覚しています。ひとつは、自分がいるべきところにいないということです(17)。これは罪の本質的な姿です。次に、自分が犯した罪を自分の責任で受け止めていることです(18)。これも素晴らしいことです。第三に、ひとことで言えば、謙遜です(19)。それも、単に儀礼的に身につけた謙遜ではなく、心からそうなっているのです。彼の素晴らしいところは、こういう自覚を持って、父のところに戻っていったということです(20)。彼は、真の悔い改めに導かれたのです。◇その後の物語は省略するとして、ここで私たちは、挫折の持っている大切な意味を知っておかねばなりません。もし彼が、このような挫折を経験しなかったら、相変わらず罪のコンプレックスを抱えたままで、毎日うつうつと過ごしていたでしょう。世の中には、我に返ることなく一生を終えていく人も多いのです。しかし、彼は、死ぬような挫折を経て、自分に返り、父に返り、神様のもとにも返っているのです。まさに父のことばとおり、<死んでいたのが生き返った>のです。自立は、真の悔い改めから生まれます。

《 自立と冒険 》

2002-03-03

 

それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。 (ルカ 15:13)

 

「自立」と言いますと、私たちはすぐ経済的な自立のことを考えてしまいますが、経済的な自立は、精神的・心理的な自立があってはじめて成り立つものであることを知っておかねばなりません。◇この主イエスのたとえ話に登場してくる放蕩息子は、このことを良く示してくれていると思います。彼は父親の身代を分けてもらったのですから、はじめから経済的な自立をするには十分であったわけです。しかし、心の面での自立ができていなかったために、その財産を放蕩して湯水のように使ってしまうのです。心の面での自立ができてない人は、豊かな賜物を与えられていても、それを活かすことができません。勿論、信仰生活においても同じことが言えます。◇しかし、そうであれば、この父親の姿は不思議です。自立ということで不十分と分かっている息子に、どうしてだまって身代を分けてやったのでしょう。失敗するであろうと分かっている息子を、どうして遠い国に旅立たせたのでしょう。この後の物語で明らかなように(20)、この父親は決して無責任な放任主義者ではありません。だれよりもこの息子を愛し、心配していたのです。それならばなぜ、挫折に向かう息子の歩みにストップをかけなかったのでしょう。◇実はここに、自立という人生における非常に重要なテーマがあるのです。自立とは、自分の人生を自分で生きぬくことです。ですから、管理や強制の中では学ぶことはできないのです。管理や強制の中にいれば失敗の危険はないでしょうが、自立を学ぶこともできないのです。ここにこの父親の知恵があります。この父親は、そう言う意味で、息子に冒険をさせ、みずからも冒険をしているのです。


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