浦和聖書バプテスト教会

4月, 2002年

《赦されること・赦すこと》

2002-04-28

「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、何度まで赦すべきでしょうか。(マタイ18:21)

 

ペテロのこの素朴な質問に対して、主イエスは一つのたとえ話をしてくださいました。◇このたとえ話でまず第一に覚えたいことは、私たち人間は、神と人と、両方の係わりの中に生かされているということです。近代人はこれを、神との係わりを否定して、人との係わりだけにしてしまいました。そこに、現代の様々な病的な現象の源があると言わねばなりません。神との交わりを否定したとき、私たちは、人との係わりをどこに位置づけてよいか分からなくなってしまったのです。◇では、神様はどんな係わりの中に私たちを置いておられるのでしょうか。それは圧倒的な赦しです。主イエスの十字架の死は、神様の赦しそのものです。罪はさばかれねばなりません。神様は、ご自分のかけがえのない御子に身代わりのさばきを受けさせることによって、私たちの罪をすべて赦されたのです。すでに私たちは赦され、借金は免除されているのです。この神様のあわれみの中に生きていくことは、私たちのたましいにとって最も重要なことです。赦しを知らないたましいは、不安と恐れを背負い続けていかねばなりません。これが、神様との交わりを断ち切った現代人の姿なのです。◇さらに、赦されていることを忘れているたましいは、決して赦すことができません。このたとえのしもべがそれを示しています。彼は一万タラントを赦されているのに百デナリを赦すことができないのです。百デナリとは、私たちの現実的な金額です。しかし、現実的であればこそ、かえって古い罪の性質に動かされてしまうということがあるのではないでしょうか。仲間をつかまえ、首を絞めて、「借金を返せ。」といきり立っている姿をどう思うでしょうか。

《ことばと権威》

2002-04-21

そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。  (エレミヤ1:9)

 

何をどう語ってよいか分からない。これはエレミヤだけでなく、みことばの働きをなそうとする者なら誰でも覚える悩みです。◇しかし主は、御手を伸ばして彼の口に触れ、彼に主のことばを授けてくださいました.。<今、わたしのことばをあなたに授けた。> このような主の取り扱いを受けて、彼は主の預言者として立って行くのです。これは、私たちにも必要な主の取り扱いではないでしょうか。イザヤも同じ経験をしてることをイザヤ書6章に確かめることができます。◇三つの重要な意味が考えられます。ひとつは、自分の言葉が聖められることです。私たちは、普段ずいぶんと汚れた言葉を使っているのではないでしょうか。ヤコブ書3:11には<泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。>と問いかけられています。主のみことばを語る者は、まず、汚れた言葉、人を傷つける言葉を聖めていただかねばなりません。◇二番目に重要なことは、何を語るか、即ちその内容です。私たちは、自分の思想や哲学を伝えるのではなく、キリストの福音を語らなければなりません。<ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。>(コリントⅠ1:22,23) ◇最後に覚えたいことは、ことばの権威の問題です。<あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。>(ヨハネ20:23)と主イエスは言われました。私たちクリスチャンには、罪を赦す権威が授けられているのです。

《神の聖定に生きる》

2002-04-07

「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、…あなたを聖別し、…定めていた。」 (エレミヤ書1:5)

 

人生には自分で自由に選んでよいものと、決してそうしてはならないものがあります。もしエレミヤが預言者になるのを自由に避けていたなら、恐らく彼は一生の間「生きる意味」をつかむことができなかったでしょう。◇実は彼は、気持ちの上では、預言者になりたくなかったのです(6)。彼はもともと祭司の家系に生まれましたから(1)、そのまま祭司職を受け継いで生きて行くなら、それなりの人生を歩んで行けると考えていたのでしょう。しかし、冒頭の主のみことばは、神の永遠の計画においては、彼が祭司ではなく預言者として生きるように定められていると伝えているのです。これを、神学のほうでは「神の聖定」言っています。◇この神様の永遠の計画はだれにでもあるわけですが(エペソ1:4)、問題は、ほとんどの人がそれを自由な選択によって避けて生きてることです。これが罪の本質的な姿です。何もかも自分で決められると考えているところに、最大で致命的な間違いがあるのです。人生には、あらかじめ神の定めておられるものがあります。それに従わなければ、私たちはいつまでも迷いの中を歩まねばならないのです(ローマ3:12)。◇神の聖定には従わなければなりません。創造主は何よりもそれを願っておられるのです(テモテⅠ2:4)。クリスチャンとして生きることを、自分で決められると考えている人はいないでしょうか。そうではありません。それは従わねばならないことなのです。神の聖定のない人はひとりもいません。神様を信頼し、神様に従って生きることは、すべての人に定められている永遠の計画なのです。


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