浦和聖書バプテスト教会

5月, 2002年

《見ようとしない目》

2002-05-19

あなたは「私には罪がない。確かに、御怒りは私から去った。」と言っている。「私は罪を犯さなかった。」と言うから、今、わたしはあなたをさばく。 (エレミヤ 2:35)

 

何が見たくないといって、自分の罪の姿ほど見たくないものはありません。人は、自分の罪の姿を、他人にも自分にもひた隠しに隠して生きているのです。◇なぜ罪を隠すのでしょう。それは、罪の真実を見ることが耐え難いことだからです。自分の罪の真実を見ることのできる人は、真に勇気のある人です。たいていの人が、「私には罪がない。」と自分に言い聞かせ、生きるためのバランスをとっているのです。イスラエルがそうでした。主なる神は、<わたしに民がわたしを忘れた日数は数え切れない。>(32)と怒っておられるのに、彼らは「私は罪を犯さなかった。」と主張していたのです。◇時には、この偽りの姿が信仰という仮面をつけて現れます。「確かに、御怒りは私から去った。」とは、神の哀れみによる赦しを意味してる言い方です。真実は、主が彼らを懲らしめ(30)、さばこうとしておられるのに(36、37)、彼らは、自分たちは神の赦しの中にいると信じていたのです。こういう偽りの姿が、新約の時代、主イエスの十字架の贖いに対しても行われているのを見ます。十字架を、自分の罪を見なくてすむための方便にしてしまっているのです。◇主は、<「私は罪を犯さなかった。」と言うから、今、わたしはあなたをさばく。>と言われます。今現在、主のこのさばきが、あらゆるところに現れているのではないでしょうか。罪を隠して善を行おうとする人間の義は、あらゆるところに歪を生じさせているのです。箴言のみことばを思い起こさねばなりません。<自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者は、あわれみを受ける。>(28:13)

《こわれた水ため》

2002-05-12

わたしの民は二つの悪を行った。湧き水の泉であるわたしを捨てて、多くの水ためを、水をためることのできない、こわれた水ためを、自分たちのために掘ったのだ。 (エレミヤ2:13)

 

水ためとは、勿論、水をためるための施設です。しかし、イスラエルの人々が掘った水ためは、こわれていて水がみな漏れてしまうのです。これは何を意味しているのでしょう。◇まず、湧き水と水ためを比較してみるところから始めねばなりません。湧き水は、悠久の時を経てなお湧き続け、これからもこんこんと湧き続けていきます。それに対して水ためは、水をためるために人が作ったもので、何か事が起こるとたちまち枯渇してしまうのです。神様が、イスラエルの背信をこんな風に指摘しておられるのは、現代の私たちにも大変意義あることではないでしょうか。◇湧き水は自然そのものです。これは、唯一絶対の創造者を指しています。対して水ためは、人がこしらえたもの、人工宗教を意味しているのです。イスラエルは、唯一絶対の湧き水、生命の根源であられるお方を捨てて、カナンの土着宗教を取り入れた混合宗教を多数こしらえてしまったのです。人間の背信がこのような経路をたどって進んでいくことを、私たちは決して忘れてはなりません。人は現在でも、自分たちの必要のために、こわれた水ためを作りつづけているのです。それゆえ、蓄えても蓄えてもなお貧しいのです。◇私たちは、唯一絶対の湧き水であられるお方に立ち返らねばなりません。イザヤは次のように呼びかけています。<ああ。渇いている者はみな、水を求めて出て来い。金のない者も。>(イザヤ55:1)。また主イエスも<だれでも渇いているなら、わたしのもとに来て飲みなさい。>(ヨハネ7:37)と招いておられるのです。

《神が争うとき》

2002-05-05

そのため、わたしはなお、あなたがたと争う。(エレミヤ2:9)

主なる神様が、私たちと争うお方であることをどれだけの人が知っているでしょうか。多くの人が、そんな神様は認めたくない、と思うでしょが、真実は違います。<わたしはなお、あなたがたと争う。>と言われるのです。どうしてでしょうか。◇まず第1に、イスラエルの人々は、誠実な信仰、愛に満ちた従順な信仰を過去のものにしてしまったのです(2,3)。人間にはこういう側面があるようです。若い苦しい時代には従順に主に仕えていたのに、祝福を受けて豊かになると、次第に主を忘れていくのです。「むかしはよいクリスチャンだった。」ということには何の意味もありません。主は私たちに、今どのように従うかを問うているのです。◇第2に、主がイスラエルと争うのは、彼らが与えられた祝福を汚してしまったからです(7)。約束の地は、神の賜物以外の何ものでもありません。彼らは十分にその恩恵を味わい楽しむことができたのです。しかし彼らは、そのゆずりの地を<忌みきらうべきもの>にしてしまったのです。物質的な豊かさの中で聖さを保つことは何とむずかしいことでしょうか。私たちは、主からゆずり受けた恵みを絶えず聖別し、主の栄光のために用いてゆかねばなりません。◇主が彼らと争われた理由の第3は、彼らが主を求めなくなってしまったからです(6,8)。これも豊かさと関係があることでしょう。何もかも満たされていくと、主を求める必要を感じなくなってしまうのです。その結果、物質的な豊かさが、かえって心の貧しさを招いてしまう。こういうことは、大いにあり得ることなのです。「主はどこにおられるのか。」 この問いかけを決して忘れてはならないのです。


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