浦和聖書バプテスト教会

6月, 2002年

《神様を見たい》

2002-06-30

わたしを見た者は、父を見たのです。(ヨハネ14:9)

 

十字架を目前にして、主イエスと弟子たちとの会話はますます熱を帯びてきます。トマスに続いて今度はピリポも、率直な疑問を主イエスにぶつけてきます。「主よ。私たちに父を見せてください。そうすれば満足します。」この願いは、ピリポのみならず、私たちのうちにもあるのではないでしょうか。神様の存在を否定してしまった現代人は、それと裏腹に、心のどこかで神様を見たいと願っているのです。◇これに対して主イエスは何とお答えになったでしょう。<わたしを見た者は、父を見たのです。> <わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい。> 父と子は別個であり、しかも一体であると言われるのです。これは、物理的な時間と空間の中に生きている私たちの頭では、なかなか納得のいかない言い方ですが、神様はこのようなお方なのです。しかし、難しいことは別にして、主イエスが目に見えない神様を説き明かされたことは確かです。この福音書の著者ヨハネは、このことを冒頭で証言しています(1:18)。 そして、きょうのこの主イエスのみことばも、このことを明言しているのです。◇<わたしを見た者は、父を見たのです。>ここでの「見る」という動詞が二つとも完了形が使われていることにも注意しましょう。主イエスを見た者が、やがて父なる神を見るようになるというのではないのです。主イエスを見た者は、すでに父を見たのであり、今も見ているのだという意味です。私たちは、神様は見えないお方だとあまり決めつけてしまわないようにしなければなりません。信仰とは、目に見えないものを見ることです(ヘブル11:1、コリントⅡ4:8)。この信仰の原理は、私たちの現実の生活にも当てはめて考えねばならないでしょう。

《主の救いに預かる》

2002-06-23

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。(イザヤ45:22)

 

預言者イザヤを通して語られた主のみことばです。◇まず主は、<わたしが神である。ほかにはいない。>と仰せられます。このような言い方は,45章だけでも数回出てきます(5,6,18、21)。これは何を物語っているかというと、神の民といわれていたイスラエルの人々でさえ、偶像の神に傾いてしまう性向があるということです。実際に彼らは、エジプトにいるときにはエジプトの神に、カナンの地に入ってからはカナン人の神に傾いてしまったのです。これは、私たちも抱えている罪深い性向ではないでしょうか。◇しかし、本当の意味で、偶像の神々に救いがあるのでしょうか。イザヤは,偶像礼拝のバカらしさを皮肉たっぷりに語っています(44:9~20)。私たちは、あっちの神、こっちの神と動き回っていることがどんなに愚かなことかに気づかねばなりません。人間が考え出し、人の手で作られたものには何の救いもないのです。かえって恥を見るだけです。◇<わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。>自らこう語りかけられる方がおられるのです。このお方は、どうしてこんな風に断言できるのでしょうか。まず第一に、このお方が、私たち人間をも含めてこの世界の創造者だからです(45:18)。特に、この地上を<人の住みかに形造られた方>と言われていることに注目しなければならないでしょう。第二にこのお方だけが、私たちの罪のために購い主(イエス・キリスト)を地上に送ってくださったからです。ヨハネ3:16~18)を見ると、御子が世に<与えられた>とか<遣わされた>とか言われています。私たちの救いのために、こんな風にしてくれた神が他にいるでしょうか。

《福音にふさわしく生きる》

2002-06-16

私の喜びが満たされるように、あなた方は一致を保ち、同じ愛の心を持ち、心を合わせ、志を一つにしてください。 (ピリピ2:2)

人間のいるところどこにでも問題があります。それは、人間が罪を持っているからです。罪が赦されたとはいえ、まだ、罪を持ちつづけている人間の集まりである教会にも問題も当然生じます。パウロが投獄されていたピリピの教会にも問題がありました。妬みや争いをもってキリストを宣べ伝えたり、獄中のパウロを「さらに苦しめる」目的で党派心をもって宣教する人たちの存在がありました。◇クリスチャンはこの世のものではなく、キリストにあって真の慰めを得ている者たちです。私たちは、キリストが持っておられる愛によって、こころから人々を励ます真実さを持っております。ところが、励ますどころか足を引っ張り合い、一致を妨げている自分の姿を見つけなくはないと思います。◇パウロが党派心や虚栄、自己中心を避けることを願ったのは、そうしたことが教会の一致と平和をかき乱す要因になると見抜いていたからです。ひとりひとりが自分の意見や考えに固執するときに争いが生じます。利己主義と功名心は生まれながらに私たちの心を支配しており、人間はこのようなものの虜になっています。◇こうした現実に必要なことは、へりくだりです。わたしたちは、ふだんは気がつかないではおりますが、実は傲慢なものであります。他の人たちを自分より優れたものと思うことが困難なものであります。こうした私たちの姿に対してパウロは「自分のことだけでなく、他の人のことも顧みなさい。あなたがたの間ではそのような心構えでいなさい。」(2:4-5)と勧めています。愛による一致のために私たちはこの言葉に聞き従うことをなおも必要とされているのではないでしょうか。             文責:高木

《主イエスの行く道》

2002-06-09

「わたしが道であり、真理であり、いのちなのです。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」 (ヨハネ 14:6)

 

捕縛・十字架・復活・昇天と続く主イエスの歩みは、弟子たちにはあらかじめ明らかにされました。しかし、これはなかなか理解し難いことだったようです。◇弟子の一人トマスは、率直に疑問をあらわします。「主よ。どこへいらっしゃるのか、私たちにはわかりません。どうして、その道が私たちにわかりましょう。」このトマスの心情は私たちにもよく分かります。十字架の死が天に場所を備えに行くことだと言われても、目で確認できるのは、十字架にかけられ、もがき苦しんで殺されて行く主の姿なのですから。何が見えないといって、天の御国へたどる道ほど見えないものはないでしょう。◇トマスのこの素朴な疑問に対して、主イエスは「わたしが道であり・・・。わたしを通してでなければ、だれひとり父のみもとに来ることはありません。」とお答えになります。天の御国への道は、主イエスご自身だと言われるのです。そして、この道以外には天に至る道はないと言われるのです。主イエスがどうしてこう言い切ることができるのか、私たちはあらためて考えてみる必要があります。◇私たち日本人は宗教的にも楽観的な国民だと言われています。「もし天国があるなら、自分はそんなに悪いことはしてないから、たぶん行けるだろう。」漠然とこんな風に考えている人が多いのです。これは仏教的寛容のせいでしょうか。しかし、十字架の死と、死からのよみがえりを通ることなく父のみもとに行ける人はひとりもいないのです。主イエスは、みずからこの道となられたのです。決して、道を説かれたり、指し示したのではないのです。

《そなえられた場所》

2002-06-02

あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。 (ヨハネ 14:2)

 

主が弟子たちのもとを去って行かれることを知った時、弟子たちの心には大きな動揺が湧き起こりました(1)。 これは当然なことでしょう。 主がおられなくなったら、自分たちはこれからどうなってしまうのだろう。 恐れと不安が心を領してしまったのです。 しかし主は、そういう弟子たちを励まし、天の御国について教えられるのです。 <わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。> ◇十字架の死の彼方に、このような主のみわざがなされていることを、どれだけの人が知っているでしょうか。私たちは、あまりに も地上の事柄に心を奪われ、それがすべてだと思い込んでいるのではないでしょうか。 神様を信じていない人は、ことさらにそうでしょう。しかし、死によってすべてが無に帰するのなら、主イエスが十字架の苦しみを負う必要はまったくなかったのです。どんな死に方をしようが、主イエスも死んで無に帰し、私たちも死んで無に帰するのです。 ◇しかし、そうでないことを、主イエスのこのみことばは保証しています。<あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。> 十字架の死の彼方に、私たちのために、私たちの行くべき場所が備えられているのです。私たちが目指さなければならないのは、この天の住まいなのです。まず何はともあれ、私たちは、天の御国の住民登録を済ましておかねばなりません。 すでに場所は備えられているのです。 あとは、そこに私の住居表示がきちんとなされるだけです。 父の家には、住まいがたくさんあります。 あなたの住まいは確保されているでしょうか。


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