浦和聖書バプテスト教会

7月, 2002年

《何をすれば救われるか》

2002-07-28

私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」 (ルカ18:18)

 

私たちは、この質問が非常にまじめな質問であったことを感じ取ります。彼は、主イエスをからかったり、ためしたりしているのではありません。この問いかけには、何か真剣なものが感じられます。◇まず彼が、永遠のいのちについてではなく、それをどうしたら<自分のものとして受けることができるか>を尋ねていることに留意しましょう。宗教的な課題は、それを客観的に論ずるだけで済ませるわけにはいきません。必ず自分がかかわってこなければならないのです。即ち、自分がどう生きていくのか、どのように死んでいくのか、という自分自身の問題なのです。この人物が、若くして(マタイ19:20)このような根源的な課題に突き当たったことは、大変意義あることといわねばなりません。◇それにしても、なぜ彼が、若くしてこのような根源的な人生の課題に気づいたのでしょうか。聖書の示してるところに従えば、彼は若くして役人であり、しかも、大変な金持ちであったということです。恐らく彼は、青年のうちに、もうそれなりの人生の目標に到達していたのです。人は、それなりの人生の目標を達成すると、より根源的な人生の問いにぶつかるようです。社会的に責任を果たし終えた中高年の人たちが、にわかに宗教的な課題に悩み始めるというのは、このことを物語っているのではないでしょうか。私たちが、日ごろ、人生の目標だと考えていることは、本当は最終的な目標ではないのかも知れません。少なくとも、大切な自分の人生を「私は何をしたら、金持ちになれるでしょうか。」という類のレベルで生きてしまわないようにしなければなりません。根源的な目標を見失わないようにしたいものです。

《孤児にはしない》

2002-07-21

わたしは、あなた方を捨てて孤児にはしません。わたしは、あなたがたのところに戻ってくるのです。(ヨハネ14:18)

 

主イエスが十字架につけられ,人々の手によって殺されてしまう。これは、弟子たちには永遠の別離のように思えたのでした。◇どんな形をとろうと,確かに,死はこの世のあらゆる係わりを切断してしまいます。子弟の関係も,親子の関係も,愛情で結ばれた関係も、死はすべてを永遠に断ち切ってしまうのです。主イエスも,この地上的なつながりの限界をあからさまに伝えておられます。<いましばらくで世はもうわたしを見なくなります。>◇しかし、地上のあらゆる係わりが切れてしまっても,ひとつだけ、決して断ち切られることのない係わりがあります。それが信仰による救いの関係です。<わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。>ひとたび救いの関係に入った者は、死さえもそれを覆すことはできないのです。即ち、主イエスの姿は見ることができなくても,弟子たちがポツンと地上に取り残されるようには決してならない。<わたしは、あなたがたのところに戻ってくるのです。>と主は言われたのです。◇まず、よみがえりがあります。主は死に勝利して、再び弟子たちのところに戻ってこられたのです。さらに先週学んだように,主イエスが天に帰られた後には,聖霊の降臨が起こります。聖霊は<もうひとりの助け主>となって、信じる者たちに臨まれたのです。ですから、信じる者たちが神様との交わりを失って、ポツンと地上に取り残されるようなことは,決してないのです。今日もまったく同じです。◇しかし、それなのに、なんと多くの人が、捨てられた孤児のように生きていることでしょうか。

《もうひとりの助け主》 

2002-07-14

わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります。 (ヨハネ14:16)

 

主イエスが天に帰られた後、もしこの地上が神様とまったくの断絶状態に陥ったら、恐らく弟子たちの一人として信仰生涯を全うできなかったでしょう。実際に彼らは、主イエスが十字架にかけられた時には、蜘蛛の子を散らしたように主を見捨ててしまったのですから(マルコ14:30)。 ◇しかし、主イエスはこの地上の信じる者たちのために<もうひとりの助け主>を送ってくださると約束されました。聖書の記録を辿って見ますと、主イエスが天に帰られてから10日目にこの約束が成就しています(使徒2:1~4)。ペンテコステの出来事です。この<助け主>こそ<真理の御霊>、すなわち三位一体の神様の第三位挌の神、聖霊であられます。◇この助け主(パラクレトス)が来臨されたことによって、弟子たちがどのように変えられたか、改めて聖書を開くまでもないでしょう。主イエスの名を口にすることさえできなかった弟子たちが、自分のいのちをかけて、キリストの証人として立ち上がっていくのです。<世はその方を見もせず、知りもしない>と主は言われましたが、確かに、目に見えない神が彼らを造り変えたのです。◇<その方はあなたがたとともに住み、あなたがたのうちにおられる>と主は言われました。現在私たちがこのお方の護りと助けの中にあることを、どれだけの人が信じているでしょうか。信仰生活は、私が信じつづけていく生活ではありません。パラクレトスによって生かされていく生活です。今このお方がともに住み、私たちのうちにあって、すべてをとりなしてくださるのです。

《主イエスの名によって》

2002-07-07

あなたがたが、わたしの名によって何かをわたしに求めるなら、わたしはそれをしましょう。(ヨハネ14:14)

 

主イエスは、十字架にかかる前に、素晴らしい約束を私たちに残してくれました。 私たちはここに、私たちの祈りに対して、計り知れない特権が与えられていることを知るのです。◇ここでまず第1に覚えたいことは、主イエスは、私たちの祈りのすべてをとりなしてくださるお方だということです。この主の働きを決して過小評価してはなりません。とりなしとは、単に私たちの願いを父なる神に伝えることだけを意味してはいません。私たちの祈りの全責任を負ってくださるということです。私たちの祈りには、みこころに添わないものや不純なものがどうしても入ってきます。しかし主は、その全責任を負ってくださるのです。十字架の秘儀は、こうして、祈りにおいて最も明らかになるのです。◇従がって、主イエスの名によって祈ることは、整理、聖別されることになります。<何でも、それをしましょう。>と言われていますが、これは、何でも私たちの欲求どおりになるということではありません。自分の人生が何でも要求どおりになっていくなら、私たちはとんでもない罪を重ねていくことになるでしょう。私たちは、みずからの祈りをなかなか聖別できない罪人です。しかし主は、ご自身の名にかなう願いだけに聖別してくださるのです。◇ですから最後に覚えたいことは、主の名によって祈る生活は、私にとって必要なものはすべて与えられ、不必要なもの、罪を犯させるものは取り除かれていくということです。祈る生活が聖別された生活だといわれる所以がここにあります。正直なところ、私たちは、自分に本当に必要なものが分からないのではないでしょうか。しかし、全知の主はご存知なのです。


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