浦和聖書バプテスト教会

8月, 2002年

(5)《欠けているものとは?》

2002-08-25

イエスはこれを聞いて,その人に言われた。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。(ルカ18:22)

 

誰にでも一つや二つ欠けはあるものですが、この青年の欠けとは何だったのでしょう。◇まず、よく分かる主イエスのみことばの表面的な意味に目を留めましょう(22)。これは単に、貧しい人を顧みなさい、という命令ではありません。注意しなければならないのは、主イエスが<あなたの持ち物を全部売り払い>と言っておられる点です。財産を全部貧しい人々に与えてしまうということは、自分は無一文になるということです。その上で<わたしについてきなさい。>と主は言われたのです。即ち主は、この青年に伝道者への献身を求められたのです。<たいへんな金持ち>であった彼にとって、これは予想だにしてないことでした。<すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。>(22)とあります。そんなことはとてもできないと直感したからです。◇しかし、主イエスの本当の意図はここにあったのではないでしょうか。「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」(21)と言い切った彼に、真実はとてもそう言い切れるものではない、自分は貧しい人々を顧みることすらできてない、否、そうしようと思っても財産を捨てることはとてもできない。こういう自分中心にしか生きられない罪の姿を自覚させようとしておられるのです。実はこれが、この青年の欠けであったわけです。◇この青年は<これを聞いて、非常に悲しんだ。>とあります。しかし、大切なことはここから始まるのではないでしょうか。どうして「主よ。私にはそれはできません。私は罪深い者です。どうかこの私を赦してください。」と言えないのでしょうか。主が求めておられるのは、悔い改めと信仰なのです。 アーメン。

(4)《何のための戒めか》

2002-08-18

戒めはあなたも知っているはずです。「姦淫してはならない。殺してはならない。・・・(ルカ18:20)

 

「私は何をしたら・・・」(18)と尋ねてきた青年に対して、主イエスはモーセの十戒のいくつかをお示しになりました。実はこれには、隠された主イエスの意図があったのです。◇ところで<戒め>といいますと、ほとんどの人が、それを守ることによって救われる、と考えているようです。この青年がそうですし、当時のパリサイ人、律法学者たちもそうでした。今日でも多くの人が、キリスト教信仰とは、聖書の戒めを守ることによって救われることだと考えているようです。しかしこれは、とんでもない思い込みだと言わねばなりません。◇主イエスはまったく違った意図でこれらの戒めを示しておられるのです。それは、律法が与えられた本来の意義なのです。ガラテヤ3:19~26を見てみましょう。ここには、律法の持っている意義が簡潔に語られています。まず第1に、律法は違反を示すために与えられていること(19) 第2に、律法によっては決して救われることはできないこと(21,22)

そして第3に、律法はイエス・キリストに対する信仰に導くために与えられていること(22,24)です。参考ローマ3:20~24。要するに主イエスは、この青年に自分の罪に気づかせ、自分にも救い主が必要であることを悟らせようとしておられるのです。◇それにもかかわらず、この青年の答えは「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」(21)でした。何と鈍感な心でしょうか。彼はまじめにこう思っているのです。私たちは、彼のこの鈍さが何処から来ているか、考えてみる価値があります。小さい時から神様を信じ、誠実に神の戒めを守ろうとしてきた。そのまじめさが、かえって彼の心を堅く閉ざされたものにしてしまっていると言えないでしょうか。

(3)《見えてないぞ》

2002-08-11

戒めはあなたもよく知っているはずです。「姦淫してはならない。殺してはならない。 (ルカ18:20)

 

この青年は「私は何をしたら・・・」と尋ねてきました。これは根本的に間違った姿勢なのですが、主イエスは彼を否定せずそのまま受け入れて、ユダヤ人なら誰でも知っているモーセの十戒をお示しになります。<何をしたら・・・>にまともに答えておられるわけです。しかし、ここには、主イエスの深い意図があったことを、決して見逃してはならないのです。主は敢えて分かりきってることを示しておられるのです。◇案の定、彼の答えは「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」でした。私たちはここで、外なる人と内なる人、というようなことを考えてみなければなりません。確かに彼は、外に行動となって現れる「外なる人」としては姦淫も殺人もしていないでしょう。この社会ではそれで正しいとされるわけですが、はたして、聖なる神様の前ではどうなのでしょう。たとえば姦淫について、有名な主イエスの「山上の説教」のひとくだりを見てみましょう(マタイ5:27,28)。殺人についても同じです(同5:21,22 ヨハネⅠ3:15)。◇分かってくることは,この青年は「外なる人」としての自分しか見ていない、ということです。行動となって現れなければ罪を犯したことにはならない、これは今の私たちの社会とまったく同じではないでしょうか。しかし、これは裏を返せば,心の中では何をやってもかまわない、ということになってしまいます。問題はここにあるのです。心の中の罪をますます助長させながら、外側だけ整えようとしている。これは所詮無理なのです。抑え込まれた罪は、ある時突然暴発し、何もかも破壊してしまうのです。ここに、どうしても救われなければならない人間の普遍的な姿があるのです。

(2)《何もしないことの意味》

2002-08-04

私は何をしたら、永遠のいのちを自分のものとして受けることができるでしょうか。」 (ルカ18:18)

 

この青年、まじめに人生の根源的な課題に取り組んでいるところは大いに評価できますが、その考え方においては大きな誤りを犯しているのです。それは、何かをすれば救われる、と考えていたことです。◇これは今日でも、多くの人が同じように考えているのではないでしょうか。私たちの社会では、何かを得るためには、それに見合う何かをしなければなりません。これは、私たちの社会の目に見えないルールとなっています。ですからこの青年も「救われるためには、自分に欠けている何かを行わなければならない。」と考えていたのです。しかし、救い(永遠のいのち)は、私たちのよい行いを交換条件として与えられるのでしょうか。◇エペソ2:1~10を見ますと、非常に明確に、救いは恵みのゆえに信仰によって与えられること、従って行いによるのではないと語られています。これは、私たちが自らの救いを考えるときにも大前提としなければならないことです。<信仰によって>と言われていますが、これは決して、信仰が救われるための必要条件である、という意味ではありません。信仰とは、救い主イエス・キリストが完成してくださった救いのみわざに、揺るぎない信頼を寄せることです。◇ここに、この青年の愚かさが浮き彫りにされてきます。彼は、目の前にいる救い主を信頼しようとせず、この救い主から救われる方法を聞き出そうとしているのです。その方法さえ分かれば、あとは自分でそれを実行して救いを得られる、と考えています。これでは結局、自分自身から一歩も抜け出すことはできません。主イエスが、彼の「尊い先生」という呼びかけを否定した理由がここにあります。主イエスは、救われる方法を教えてくれる尊い先生ではありません。救い主その方なのです。


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