浦和聖書バプテスト教会

9月, 2002年

《主の死を喜ぶ》

2002-09-29

あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。(ヨハネ14:28)

 

自分の救い主と仰いで従ってきた主イエスが、今この世を去ろうとしています。弟子たちに、どうしてそれを喜ぶことができるでしょう。◇この地上で最も悲しい出来事は何かと問われたなら、多くの人が、愛する人との別離と答えるでしょう。弟子たちとて同じです。しかも、彼らの夢と希望を裏切るかのごとく、主はパリサイ人や律法学者に捕らえられ、十字架につけられて殺されてしまうというのですから、それを喜ぶはずだと言われても、誰も納得できなかったに違いありません。主イエスの最期は、人の目にはあまりにむごく、絶望的でしかなかったのです。◇しかし、この絶望的な出来事の中に、神の隠された救いのみわざが行われていたのですから驚きです。聖書は次のように伝えています。<主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。>(ローマ4:25)もち論、このことを弟子たちが本当に理解したのはずっと後になってからですが、主イエスの死には、このように、偉大な神の救いのみわざが推し進められていたのです。◇最も悲しい出来事の中に、最も大きな喜びを知る。これが私たちの十字架理解でなければなりません。十字架のむごさ、悲しさから目をそらすものは、十字架の喜びも知ることはできないのです。十字架は、罪の重さを示すと同時に、神の偉大な救いを意味しているからです。主の死を知る者は、主にある生を知るのです。主イエスの死を喜びましょう。この地上の生涯において主が語られたことが、すでに成就したことを私たちは知っているのですから。アーメン。

《主が残された平安》

2002-09-22

 

わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。(ヨハネ14:27)

 

主イエスは、十字架につけられる前の晩、弟子たちに平安を残すと語られました。考えてみると、これは非常に不思議な約束です。◇というのは、世を去っていく者が平安を残すことはありえないからです。たとえば、世を去っていく親たちのことを考えてみてください。中には莫大な財産を子供に残す人はいるでしょう。しかし、平安を残すことのできる人は一人もいないのです。莫大な財産を残せば経済的には安定するかも知れませんが、それで心の平安が確保できるかと言うと、決してそうではありません。現代はむしろ、経済的にも恵まれている、体の健康の面でも問題はない、それなのに心の不安に押しつぶされている、こんな人がますます多くなっているのです。普通に日常生活を送っている人でも、心の中には、何とも説明のつかない不安を抱えている人は非常に多いのではないでしょうか。◇私たちはまず、聖書に従って、不安の正体が何であるか知っておかねばなりません。ひとことで言ってしまえば、不安とは神の怒りです。私たちは普段はそんなことは意識していませんが、心の奥深いところでは、実に敏感に的確に、神様のみこころを感じ取っているのです。心の中に赦されてない隠された罪があるなら、それが私たちを責めるのです。◇ここに、主イエスの残された平安の意味が浮かび上がって見えてきます。主は、あの十字架の上で私たちの罪の身代わりとなって死んでくださいました。私たちは、罪赦されて、たましいの支配者である絶対者と和らぐことができるのです(ローマ5)。それと同時に、この十字架の贖いを信じる者には聖霊の内住があります(エペソ1:13,14)。人は、そのたましいにどんな霊を宿しているかが問題なのです。

《御霊の教える知恵》

2002-09-15

・・・聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。 (ヨハネ14:26)

 

初めて聖書を手にして読んだとき、たいていの人が、何がなんだか解らなかった、という感想を持ったのではないでしょうか。面白い歌が残っています。

 

何がなんだか解らねど

ああ 有難きかな ちんぷんかんぷん

 

◇ところがある時から、聖書が解るようになる、みことばが心にひびいて来るようになる。これは、時間的に多少のずれはあるものの、主イエスを自分の救い主として受け入れた時からではないでしょうか。きょうのみことばが明らかにしているように、私たちは、生まれながらにしては、聖書のみことばを理解することすらできないのです。主イエスを信じ、心に聖霊が内住してはじめて理解できるようになるのです。◇このことは、私たちの考えを改めさせてくれるでしょう。というのは、多くの人が、聖書を学んで理解すれば信仰がもてると考えているからです。事実は反対のようです。主イエスの贖いを信じたからみことばが解るようになるのです。聖霊は、みことばを理解する上でも<助け主>なのです。◇12弟子の歩みを辿ってみてください。この地上に主がおられたとき、語られたみことばを、どれだけ理解していたでしょう。彼らの理解は実にこの世的であり、幼稚であったのです。しかし、主イエスが天にお帰りになり、聖霊がお降りになると、彼らの姿は一変します。彼らは、救い主としての主イエスを理解し、神の国を理解し、自分たちの本当の姿さえ分かって来るのです。私たちは、これが聖霊ご自身の知恵であることを無視してはならないのです。

《イエスご自身が現われる》

2002-09-08

わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」 (ヨハネ14:21)

 

ここにも、一人の弟子(イスカリオテでないユダ)の素朴な疑問があったことが記されています。それは、主イエスがどうして世に対してご自分を現わさないのか、というものでした。◇もし主イエスが人々の関心をひきつけて、一大宗教団体を作ろうと考えていたり、世の人々の力を結集して社会改革をしようと考えていたら、もっと積極的に自分を世に現わしていたでしょう。しかし、主は救い主、その使命はひとりひとりのたましいを救うことにあったのです。ですからむしろ、主イエスの歩みをたどって見ると、世から自分を隠しておられる姿さえ見出すのです。◇しかしそれでは、主イエスはだれにも現われてくださらないのでしょうか。そんなことはありません。主はこの箇所で、だれにご自分を現わされるかを明らかになさっておられるのです。主を愛する者、そして主のみことばを守り、それに従う者を主は愛し、その者にご自分を現わされる、と約束しておられます。これは私たちが心しなければならない点ではないでしょうか。◇なぜ主イエスの現われを受けられないか、このみことばに従って考えてみましょう。まず最初に考えられる理由は、主を愛してないことです。愛がなければ、私たちは主と向き合うことすらないのです。さらに、気持ちの上では主を愛していても、その生き方において主のみことばを守っていなければ、やはり主は現われてはくださらないでしょう。主は、わたしを愛しているならわたしのことばを守るはずだとくりかえし語っておられます。私たちが、これらの点を本気で悔い改めるなら、主は今でも私たちに現われてくださるのです。

(6)《富と信仰》

2002-09-01

金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」  (ルカ18:25)

 

この富める青年は、救い主を目の前にしながら、悲しみのうちに去っていきました。きょうのみことばは、その後で主が弟子たちに語られたものです。◇このみことばが私たちに教えてくれるひとつの事実は、富が信仰の妨げになってしまうことがある、ということです。特にこの青年のように、それを捨てなければ救われないと考えた場合は、信仰をもつことは非常に難しくなるでしょう。富を取るか信仰を取るかという二者択一の狭間に立たなければならないからです。主イエスは、金持ちが救われるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしいと語られました。やはり、お金はこの地上では最も魅力あるもののひとつでしょう。◇しかし、それでは金持ちは救われることができないのでしょうか。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」(26)という人々の疑問は、至極当然に起こってくる疑問でしょう。しかしそれに対して、主イエスは「人にはできないことが、神にはできるのです。」とお答えになりました。神様が働かられれば、らくだが針の穴を通るようなことが起こると言われるのです。実際にこの青年も、「全財産を捨てなければ・・・。」などと考えないで、素直に自分の罪を認め、あわれみを乞うたなら救われたのです。◇救いは神様のなさることです。救われるために人にできることは何もないのです。信仰とは自分で何かをすることではありません。救い主と、救い主がなしてくださったみわざに依り頼むことです。もし財産を捨てれば救われるということなら、救いはお金で買えることになってしまうでしょう。「信仰による救い」という聖書の教えを、決して他のものに置き換えてはならないのです。アーメン。


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