浦和聖書バプテスト教会

10月, 2002年

《自分を活かす》

2002-10-27

よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。  (マタイ5:21)

 

だれでも、この地上の一回限りの人生、自分を活かした歩みをしたいと願っています。しかし現実は、なかなか思うようにならないようです。◇この主イエスのたとえ話にも、自分を活かせた人とそうでない人とが出てきます。はじめの二人のしもべは自分を活かせた人です。彼らは、主人から預かったタラントを、それぞれの能力に応じて活かすことができました。しかし三番目のしもべは、預かったタラントを、当時の社会状況では最も安全と思われる方法で隠してしまったのです。後でこのしもべは、主人から「悪いなまけ者のしもべだ。」と叱責され、そのタラントを取り上げられてしまいます。◇どうして彼はタラントを隠したのでしょう。25節にその理由が彼自身のことばで示されていますが、ひとことで言えば、失敗を恐れたのでしょう。成功する確率が100%なら、だれだってタラントを活用するでしょうが、世の中はそんなに甘いものではありません。失敗する危険性は何をするにもつきものです。そこで彼はどう考えたかというと「苦労して失敗するよりも、何もしないで失敗しない方がまだいい。」と自分を守ったのです。これが彼の人生哲学です。◇しかし、言うまでもなく、これも罪なのです。主イエスはこのたとえ話を非常に厳しいことばで結んでいます(30)。天の御国が来た時(地上の人生が終わる時)、<泣いて歯ぎしりする>ことにならないように、私たちはこれからの人生をどう生きるかを考えねばなりません。失敗の危険のない人生は楽かもしれません。しかし、そういう人生は、神様の役にも立たないのです。

《獅子の穴》

2002-10-20

大臣や太守たちは、国政についてダニエルを訴える口実を見つけようと努めたが、何の口実も欠点も見つけることができなかった。 (ダニエル書6:4)

 

古代バビロニヤ帝国のネブカデネザル王の死後、メディア人のダリヨスが王位を引き継いだ。ダニエルは3人の大臣の一人であり、神の霊が宿っていたので際立って優れていた。そのため、ほかの大臣や太守たちは嫉妬し、訴える口実を探した。どうしても、彼を陥れることができなかった彼らは、ダニエルが、日に三度主に祈りを捧げていることをつかみ、「王以外のものに祈るものはライオンの穴に投げ込むという法令を王に作らせた。彼らの奸計にかかったダニエルは、法令のもと獅子の穴に投げ込まれた。◇妬み、羨望というものは、あまりに遠くの人、あまりに違う人を羨望することはありえない。より強い妬みは、一人が成功し、ほかの一人は成功しないというような、仲間の間で生じる。妬みは、行動することを断念し、目標をさえも放棄する。ただ、彼が不成功に終わればと願う。◇この願望はたとえクリスチャンであっても解消しにくい罪のひとつではないでしょうか。御心を忘れ、御心に集中するのではなく、競争者、成功者のことばかり考え、その人々に羨望を抱いているとすれば、そういう不毛な怨恨を抱くことで自分のエネルギーを浪費するだけでなく、自分が盲目にすらなりかねないものであります。まさに、妬み、羨望とは私たちが目指すべき御心から遠ざけているものを探している姿にほかなりません。◇それゆえに、何をするにしても、唯一の救いは、全力で十字架を負い、その目指すべき御心を追い求めていくことのほかに、羨望や妬みから救われていくことはできないのです。(文:高木)

《つまずくことのないために》

2002-10-13

これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。 (ヨハネ16:1)

 

まず、主イエスがこの地上を去った後に、弟子たちにとってどんな時代がくるかを主が明らかにしておられることに注目しましょう(2,3)。<人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。>と主は言われました。これはユダヤ人社会に生きていけないことを意味します。<あなたがたを殺すものがみな>と言われていますから、実際に迫害を受けて殺されることになるのです。しかも迫害する者たちは<そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う>というのですから、これはどうしようもありません。しかし、これは現代の私たちの時代に酷似してないでしょうか。◇しかし幸いなことに、このような恐ろしい迫害の一つ一つを受けながら、弟子たちは、かつて主イエスが語られたことを<思い出す>というのです(4)。即ち、今起こっている困難は偶然に彼らを襲ったものではなく、あらかじめ全能なる神様に覚えられていることである。つまり、確かに恐ろしく辛いものではあるが、それは遠大な神のご計画の中にあることであると知ることができるというのです。今は理解できていなくても、みことばを耳にしておれば、<その時が来れば>すべてが納得いくようになるというのです。◇実際に、私たちの信仰生活には、こういったことが限りなくあります。時を支配してるのは、まさに神ご自身です。みことばが、時と場を得て、その人のうちに主体的に結実するのです。このことを知らないでいると、起こってくる出来事にあわてふためき、つまずいてしまうのです。信仰生活には、未来を希望する面と、過去を確認する面があることを決して忘れてはなりません。<その時が来れば>すべてが分かるのです。ハレルヤ。

《自分の十字架に向かう》

2002-10-06

 

立ちなさい。さあ、ここから行くのです。 (ヨハネ14:31)

 

主イエスの別離のメッセージはまだまだ続いて行きますが、話が一段落したところで語られたこのみことばには、主イエスの十字架に向かっていく並々ならぬ決意が伺われます。◇主は決して、十字架を避けようとはしていません。人々の罪の贖いのために身代わりとなって死ななければならないことを知っておられた主は(10:18)、毅然と十字架に向かっていかれるのです。勿論、十字架がどんなに苦しい刑であるかを十分承知の上でです。しかも、この短いみことばは、弟子たちに主イエスとともに十字架に向かうことを促しているのです。これも、弟子たち全員に裏切られることを承知の上でです。私たちは、こういう主イエスの姿に何を感じるでしょうか。◇辛いことや苦しいことは誰だっていやです。私たちは、自分が死ぬときでさえ安楽を求めるのです。しかし、それぞれの人生には、どうしても担っていかねばならない重い課題があるのも事実ではないでしょうか。特に、神の国のために何かをなそうとする者は、その重荷は限りなく重いと言わねばなりません。けれどもそれを避けていたら、神の働きはできないのです。<さあ、ここから行くのです。>と、それぞれの十字架に向かわねばならないです。◇主イエスも他の福音書で、人にはそれぞれ負うべき<自分の十字架>があることを示しておられます(マタイ10:38,16:24)。主イエスに従うということは、この自分の十字架を負うことでもあるのです。楽しい夢を見ているような信仰生活は何処にもありません。私たちは、自分の負うべき十字架を決して放棄してはならないのです。<立ちなさい。さあ、ここからいくのです。> アーメン。


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