浦和聖書バプテスト教会

11月, 2002年

《神の愛に満たされて》

2002-11-24

愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。  (ヨハネⅠ4:7)

 

よほどおヘソの曲がった人でない限り<互いに愛し合う>ことに反対する人はいないでしょう。しかし、今の私たちの時代は、愛し合うことが非常にむずかしい時代になってきている、と言ってよいでしょう。多くの人が、愛し合うことのむずかしさに悩んでいるのです。◇私たちは、どこにその原因があるのかを、じっくり考え直してみる必要があるようです。聖書は、その根本原因を、本当の愛を知らないからだと伝えているのです。愛を知らずに愛そうとすれば、それは自己流の愛にならざるを得ません。ですから、自分では愛しているつもりであっても、かえって相手を傷つけたり、時にはダメにしてしまっているのです。自己流の愛は危険きわまりないものなのです。◇聖書は、<愛は神から出ているのです。>と断言します。<私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し>と言います。この「神からの愛」を無視してるところに、私たちの的外れ(罪)の姿があるのです。愛はまず受けるものです。知らねばなりません。自分の心が愛に満たされてはじめて、外に向かうことができるのです。心が空っぽであったり、異質なものや汚れたものが満ちているのに、どうして愛することができるでしょうか。◇では、神の愛はどこに示されているのでしょう。9,10節のみことばに、私たちは自分の深い思いをめぐらせなければなりません。<ここに愛があるのです。>と二度も強調されているからです。「ここに」と言われているのですから、「ここに」目を留め、思いをめぐらせねばなりません。御子イエス・キリストのなだめのみわざこそ、神の愛の至高の現れなのです。私たちは、どこに神の愛を捜しているのでしょうか。

《今週のみことば》

2002-11-17

 

御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。(ヨハネ16:14)

 

御霊(聖霊)は、主イエス・キリストの栄光を現わすためにこの地上に来られました。従って、御霊が私たちに与えてくださる恵みはすべて、主イエス・キリストから来ているのです。◇このことはまず、御霊ご自身は、自分が崇められることを望んでおられない、ということを意味しています。この点では特に、信仰の奥義をつかんでいるクリスチャンたちに注意を促してくれます。あまりにすばらしい聖霊の恵みに預かると、知らぬ間に聖霊を崇めるようになっていくからです。これは自然な傾向なのでしょうが、決して御霊の本意ではありません。御霊は主イエス・キリストの栄光を現わすために私たちに臨んでおられるのです。◇従って御霊は、主イエスの御名が崇められることを何よりも喜んでくださいます。聖書の中に<神の聖霊を悲しませてはいけません。>(エペソ4:30)という勧めがなされていますが、これは何も大きな罪を犯すことだけでなく、御霊の本意を損なうことをも含めて受け取らねばなりません。主イエスの御名が軽んじられることは、御霊の大きな悲しみなのです。私たちの神は三位一体の神です。聖霊単独の働きなどというものを考えてはならないのです。◇聖霊は、主イエスの御名が崇められることを何よりも喜んでくださいます。ですから、思い切って人間的な言い方をすれば、主イエスを崇めるところに聖霊の働きがなされるということです。私たちは、聖霊の助けを求めようとするなら、まず、主イエスを崇めているかどうかを吟味する必要があります。主イエスを軽んじていながら聖霊の恵みに預かる、などということはあり得ないことなのです。

《真理の御霊が来ると》

2002-11-10

しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。 (ヨハネ16:13)

 

地上におられた主イエスは、肉体を持っておられたがゆえに、それなりの制限を抱えていました。しかし聖霊は、それらの制限をすべて払い去ったのです。◇弟子たちが、主イエスの十字架とよみがえりの意味を本当に理解したのは、御霊が来られた後でした。死をも辞さない信仰の力を身に帯びたのも御霊が来られた後です。不思議なことですが、彼らが主イエスのことを理解できたのは、主が地上におられたときではなく、主がいなくなってから、すなわち御霊が来られてからなのです。◇この事実から、私たちはひとつの大切な点を確認しておかねばなりません。それは、聖霊の助けなくしては、だれひとり、信仰の真理に到ることはないということです。<御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示す>と主は言われました。<御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせる>とも言われました。今日私たちは、この聖霊の助けをどれだけ知っているでしょうか。◇私たちは「知る」ということを、あまりに自分(人間)中心に考えてしまっているのです。たとえば聖書。聖書をよく研究すれば、だれもが神様を知ることができるのでしょうか。もしそうなら、この世界にはもっとたくさんのクリスチャンがいていい筈です。現実がそうでないことは、私たちが一番良く知っています。知性で知ることと心で知ることとは、必ずしも一致してないのです。聖霊の助けなくしては、神様を信じることさえできないのです。特に、十字架とよみがえりの秘儀は、聖霊の助けがなければ、決して「アーメン」とはならないのです。

《去っていくことが益?》

2002-11-03

しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。 (ヨハネ16:7)

 

この世の中で最も悲しいことは、愛する人との別離でしょう。主イエスが「わたしは去って行きます。」とあからさまに伝えたとき、弟子たちの心は、悲しみでいっぱいになってしまいました(6)。しかし、そういう弟子たちの心を汲み取って、主は<わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。>と告げられたのです。◇これは、あまりにも不思議なみことばですが、実はここにこそ、神の救いのみわざが完結することが明らかにされているのです。私たちは、救いのみわざを主イエスの十字架のみに焦点をあてて見がちですが、十字架は出発点なのです。十字架、よみがえり、昇天、聖霊降臨となってはじめて、みわざは完結するのです。もし私たちが、主イエスの死を悲しむだけで終わったなら、そこには何の救いもないと言わねばなりません。◇主は確かに去って行かれます。しかし、主が去って行かれたから、聖霊なる神<助け主>が地上に遣わされたのです。この聖霊の助けがなければ、私たちは、自分の罪を認めることすらできません(8)。このことは、弟子たちの歩みを辿ってみると非常によく分かります。十字架のときには、弟子たちはみな主を見捨てて逃げてしまいました(マルコ14:30)。主のよみがえりには驚くべき喜びを覚えたのですが、それでもまだ世俗への執着を断ち切れないでいます(ヨハネ21:3)。彼らが本当に造り変えられたのは、聖霊が臨まれた後なのです(使徒2章)。◇私たちは、ひとつのことに留意せねばなりません。十字架もよみがえりも主イエスの身の上に起こったことです。しかし聖霊降臨は、弟子たちの身の上に起こっているのです。


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