浦和聖書バプテスト教会

12月, 2002年

《未熟なる信仰と知りつつも》

2002-12-29

見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています。 (ヨハネ16:32)

 

十字架を前にして主イエスが語られた長いみことばを通して、弟子たちはそれなりの確信に到りました。彼らは、もうあらためて主イエスに尋ねる必要がない、<これで、私たちはあなたが神から来られたことを信じます。>(30)と告白しています。◇しかし、彼らのこの信仰は、何と力のない未熟なものだったことでしょう。自分では「もう分かった。」と思っていても、主の目から見れば、彼らの信仰はあまりにも弱く、情けないものだったのです。<あなたがたは散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。> 主は、弟子たちがこの後どうなるか、すべてをご存知であったのです。◇しかしそれでも、主は弟子たちを愛されました。自分を裏切る者たちのために、いのちを投げ出してあがないのみわざを為し遂げようとしておられるのです。何と愚かな愛でしょうか。この世の中には、やがて裏切ると分かっている者のために自分のいのちを犠牲にする人はひとりもいないでしょう。しかし主は、それをしておられるのです。何と愚かなことでしょうか。しかし、この愚かさの極みが十字架なのです。◇私たちは、今の私たちにも、この主の愛が注がれていることを知っているでしょうか。主は、私たちが主とともに死ぬことのできる者だから私たちを愛してくださるのではないのです。つきつめると、私たちも<自分の家に帰り>、自分を守ることしかできない者なのではないでしょうか。しかし主は、そういう私たちを十分承知の上で、なお愛してくださるのです。今私たちは、この主の愛にささえられているのです。

《一番最初に救われた人々》

2002-12-22

きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。(ルカ2:11)

 

救い主が生まれたという喜びの知らせは、まず野原の貧しい羊飼いたちに伝えられました。これが神様の決められた順番だったようです。しかし、もし、彼らがこの知らせを聞いただけで終わらせてしまったら、はたして彼らは救いの喜びに預かることができたでしょうか。◇彼らはまず決断したのです(15)。この決断をするのには、いろんな迷いもあったでしょう。何よりも、羊を夜の野原に放って置くことになります。どんな危険が伴うか、だれよりも彼らが一番よく知っていたはずです。しかし、もしここで彼らがひるんでしまったら、彼らは救い主に会うことはできなかったのです。◇彼らは心を決め、それを実行したのです(16)。人口調査のためにごった返していたベツレヘムで、飼葉おけに寝ておられるみどり子を捜し出すことは、けっこう大変なことだったでしょう。一軒一軒をたずねて、家畜小屋を見て回らねばならなかったのです。もち論、野原に残して来た羊も気にかかります。途中であきらめたら、彼らに救いはなかったのです。しかし、彼らは終に、飼葉おけに寝ておられるみどり子を捜し当てたのです。◇大切なことは、このようにして羊飼いたちが、御使いから伝えられたことを全部確認したことです(20)。すばらしい喜びの知らせが、このようにして自分自身のものになったのです。彼らは、神をあがめ、賛美しながら、また野原に帰って行きました。以前の彼らとどこが違っているでしょう。彼らは同じ環境で、同じ仕事に帰って行ったのですが、その心には、神をあがめ、賛美する喜びが満ち溢れているのです。彼らは、救われたのです。

《天とのつながり》

2002-12-15

それはあなたがたがわたしを愛し、・・・信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。 (ヨハネ16:27)

 

主イエスの御名によって祈るということは、私たちの願いが間接的に段階を経て天に届くということではありません。即ち、私たちの願いが主イエスのところで一端プ-ルされて、そこで御心にかなうものだけが選別されて父に伝えられるというのではないのです。もっと端的に言い換えれば、主イエスが私たちに代わって父に願ってくださるというのではないのです(26)。私たちは、直接、天につながっているのです。◇しかしこのことは、私たちの願いが、主イエスを素通りしているということでもありません。罪のきよめを成し遂げられた主イエスは、今、御父の右の座についておられ(ヘブル1:3)、父とともに私たちの願いを聞いてくださるのです。ですから私たちは、主イエスのとりなしを、ひとつひとつの段階を踏んでからでないと最終的に合の認定がでない、あの七面倒くさい役所の手続きのように考えるべきではありません。私たちの地上の願いは、主イエスの御名によって祈るとき、一挙に、何の妨げもなく、天に届いているのです。このことは、勿論、地から天への方向だけでなく、天から地への方向でもなされています。◇<父ご自身があなたがたを愛しておられる>と主は言われます。主イエスのみわざによって、それまで断絶状態にあった天と地は、見事につながったのです。私たちは直接天に向かって祈ることができ、天からは、直接御父の愛が届いているのです。私たちクリスチャンは、自分がこのような特別な立場に置かれていることを、どれだけ意識しているでしょうか。祈らないでいることは、この特権を放棄していることになるのです。

《主イエスの御名によって祈る》

2002-12-08

あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。 (ヨハネ16:24)

 

これまでの弟子たちは、何か困難が生じたら、直接主イエスに訴えればよかったのです。肉体をそなえた主イエスが、彼らの目の前におられたのですから。◇しかし、これからはちがいます。しばらくすると、主イエスの姿をもうこの地上に見ることができなくなります。その時が来たら、彼らとて、主イエスの御名によって祈る必要があるのです。もち論これまでにも、彼らはそれなりの祈りの生活はしてきました。しかし、主イエスも言われたとおり、主イエスの御名によって求めたことはなかったのです。また、そうする必要もなかったのです。これはまちがいなく、祈りの生活の新しい時代の到来を意味しています。◇主の御名によって祈るとは、祈りの単なる形式ではないのです。それはまず何よりも、私たちの地上の祈りが、確実に天に届くことを意味しています。<あなたがたが父に求めることは何でも・・・>と主は言われます。私たちの祈りのすべてを、主イエスが責任を持って引き受けてくださるのです。私たちは、かつては、どのように祈ったらよいか知らない者ではなかったでしょうか。自分の願いを天に届かせるために、私たちは実に愚かな異教的な方法に頼っていたのです。◇またある人々は、心に願いを持っても、それを祈ることはしなかったのです。願いが心の中で埋もれてしまったことはなかったでしょうか。御名によって祈るということは、私の心の願いが天に届くということなのです。<求めなさい。そうすれば受けるのです。>と主は強く語られます。信仰生活は、求めてみなければ分からないのです。喜びが満ち満ちたものになるまで祈りましょう。

《十字架とよみがえりの予告》

2002-12-01

しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。 (ヨハネ16:16)

 

この主イエスのみことばが、主の十字架の死とよみがえりを予告していることは、今の私たちには誰にも明らかですが、当時の弟子たちにはまるで理解できなかったようです。◇弟子たちの間に、ちょっとした議論がもち上がります(17,18)。<どういうことなのだろう。><何のことだろうか。><私たちには主の言われることがわからない。> これは、弟子たちの率直な気持ちだったのでしょう。しかも彼らは、主に質問することもできず、もじもじしていたようです(19)。十字架とよみがえりが、どんなに信じ難く、理解し難いものであるかを、この弟子たちの姿はよく物語っています。救い主のみもとにいた弟子たちでさえ、主の救いのみわざを予測することはできなかったのです。◇すべてを知っておられたのは、主おひとりだけでした。主は、出産の苦しみと喜びを例に挙げて(21)、これから起こり来ることを明らかにしておられます。死の苦しみを経てよみがえりの喜びに。これは、私たち罪人を救うために、どうしても通らねばならない道のりだったのです。しかし、その激しい苦痛は、よみがえりの喜びに到った時には、忘れ去られていくと主は言われます。◇そして、その道のりは、主に従う弟子たちも辿っていかねばなりません。<あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。>(20)。<そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。>(22)。

十字架とよみがえりの秘儀は、信仰生活の真髄ではないでしょうか。悲しみが喜びに変わるまで、今しばらく、私たちも時を経なければならないのです。


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