浦和聖書バプテスト教会

1月, 2003年

《小さくとも偉大な一歩》 

2003-01-26

イエスは答えて言われた。「この水を飲むものはだれでも、また渇きます。(ヨハネ4:13)

 

ここには、すさまじい女性が登場してきます。彼女は5回の離婚歴があり、ただ今6人目の男性と同棲中であるということです(18)。◇私たちはまず、こういう人が抱えている心の中のすさまじい渇きに留意しなければなりません。主イエスは「この水を飲む者はだれでも、また渇く。」と言われましたが、彼女の生き様こそ、飲んでも飲んでもまた渇くという生き様であったと言えるでしょう。しかし、これは彼女ほどではないにしろ、だれもが抱えている心の真実な姿ではないでしょうか。◇人は、渇いているから満たしを求めてさまようのです。彼女の場合は、その満たしを次から次へと男性に求めたのでしょう。しかし、その求めが深く激しいものであればあるほど、それに答えるのは至難のわざです。彼女に音を上げて去っていった男たちも、彼女との愛に限界を覚えたのでしょう。もし彼女が主イエスに出会わなかったなら、彼女はこのまま、絶望と破滅への道を突っ走っていったでしょう。しかし主イエスは、こういう彼女にも、救いのみ手を差し伸べられたのです。◇<しかし、わたしが与える水を飲む者はだれでも、決して渇くことがありません。わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます。>(14)と主は語られました。この時点で彼女がこのみことばをどれだけ理解できていたでしょう。しかし彼女は、この主イエスが与えるといわれた水を求めたのです。<先生。私が渇くことのないように、その水を私にください。>(15)。ここに、小さくはあるけれども、信仰の一歩が踏み出されているのです。やがて、このささやかな一歩がサマリヤの町を動かすほどの大きなステップにつながっていくのです。

《主の洗足の意味》

2003-01-19

イエスは答えられた。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」(ヨハネ13:8)

 

ペテロは、何人かの弟子たちが主イエスに足を洗ってもらっている様子をじっと見ていました。主がなしていることは、あまりにも不思議に思えたのです。◇彼は自分の順番が来ると、早速疑問をあらわにします。「主よ。あなたが私の足を洗ってくださるのですか。」何と言っても、主イエスのなしていることの意味が彼には分からなかったのです。これに対する主イエスの答えは「わたしがしていることは、今はあなたにはわからないが、あとでわかるようになります。」でした。少なくともはっきり言えることは、洗足の意味を彼が知ったのは、彼が主イエスの十字架の意味を知った後ではないでしょうか。彼は、意味はわからなかったけれども主イエスの恵みを受けることになるのです。◇ただ分かっていることは、常識的に考えて、主のなさっていることをそう簡単に受けることはできないということです。主が弟子の足を洗う。こんなことはあってはならないことです。「決して私の足をお洗いにならないでください。」という彼の言葉に、彼のこの気持ちがよく現れています。 しかし、洗足には世の良識を越えた重要な意味があったのです。「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません。」◇即ち、主が私たちの罪をきよめてくださらなければ、私たちは決して神様との交わりに入ることはできないのです。ですから、洗足は、あらかじめ象徴的に十字架のあがないを指し示していたのです。その意味で、ペテロが「主よ。私の足だけでなく、手も頭も洗ってください。」と願った理由が良く分かります。足の次は手でしょう。そして最後に残るのが頭でしょう。

《主が弟子の足を洗う》

2003-01-12

それから、たらいに水を入れ、弟子たちの足を洗って腰にまとっておられる手ぬぐいで、ふき始められた。 (ヨハネ13:5)

 

まず、この主イエスの不思議な振る舞いがどんな状況でなされたかを知っておかねばなりません。<過越の祭りの前に>とありますが、これは十字架にかけられる前の晩のことを意味しています。主ご自身も<この世を去って父のみもとに行くべき自分のときが来た>ことを知っておられました。しかも、v2を見ますと、イスカリオテ・ユダは、すでにイエスを売ろうと心を決めていたことが分かります。事態は非常に緊迫していたのです。◇こういう中で、主は弟子たちひとりひとりの足を洗ってくださいました。その様子がv4,5に記されていますが、勿論これは奴隷のする仕事です。奴隷でも身分の低い奴隷の仕事です。主は、みずから弟子たちの奴隷になり、弟子たちの最も汚れたところをきよめてくださったのです。弟子たちひとりひとりの前に膝まづいて。私たちは、主イエスの愛が、常に、このような謙卑さに貫かれていたことを決して忘れてはなりません。◇言うまでもなく、この謙卑の愛が、十字架につながっていくのです。洗足は足の汚れを落とすだけですが、十字架は私たちの罪や汚れを取り除くのです。洗足は弟子たちの前に奴隷になることですが、十字架は弟子たちのためにいのちを犠牲にするのです。私たちは、十字架を負う姿にこそ、仕える者の究極的な姿があることを覚えねばなりません。実は私たちも、自分では仕えているつもりでも、本当は主イエスに仕えられているのではないでしょうか。私たちの中で最も低くなっているのは誰でしょう。主イエスです。主は、今も、私たちひとりひとりの前に膝まづき、罪と汚れを洗ってくださっているのです。

《平安を持って生きる》

2003-01-05

 

あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです。(ヨハネ16:33)

 

十字架を翌日に控えての弟子たちとの長い語り合いの最後に、主はきょうのみことばを語られました。この長い語り合いの目的、それは世に残された弟子たちが平安を持つためであったのです。この平安についてはすでに14:27で触れられていますが、ここでは、その平安をもってどのように生きるかが示されています。◇まず主は、<あなたがたは、世にあっては患難があります。>と真実を示されます。普通私たちは、患難がないことが平安だと考えていますが、もしそういう平安を求めていたら、私たちはいつまでも平安を得ることはできません。なぜなら、この世に生きていくということは、様々な患難と遭遇することでもあるからです。主は、ここでは、「患難があっても平安である」という平安を与えておられるのです。否、むしろ、平安があるから患難を生き抜くことができるとおっしゃっておられるのです。◇次の<勇敢でありなさい。>という命令は、それを示しています。勇敢とは戦いを想定した言葉です。即ち、患難と勇敢に戦う姿勢が求められているのです。私たちは、ともすると、避けるだけの人生、逃げるだけの人生を送りがちですが、信仰に立って患難に立ち向かうとき勝利への道が開けるのです。◇そして最後に、私たちは勝利を獲得するために戦うのではないことを覚えねばなりません。<わたしはすでに世に勝ったのです。>と主は言われます。すでに勝利は約束されているのです。この点でも、私たちの戦いが世のそれとはまったく違うことを知っておかねばなりません。世は勝利を目指して戦います。私たちは、すでに勝利があるから戦うのです。


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