浦和聖書バプテスト教会

2月, 2003年

《主イエスの赦しと救い》

2003-02-23

そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」 (ヨハネ8:11)

 

姦淫の現場で捕らえられたひとりの女性が主イエスのもとに連れて来られました。ユダヤの律法によれば、このような罪を犯した者は、石打の刑で殺されねばなりませんでした(レビ20:10)。◇まず、主イエスがどのようにして彼女を救い出されたかを見てみましょう。主は決して多くを語りませんでした。彼女を訴える者たちに向かって、ひと言「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われただけでした。しかし、このことばを聞くと、訴える者たちは、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行ったとあります。何が起こったのでしょう。◇私たちは少なくとも、この主のみことばが「あなたがたには彼女をさばく資格があるのですか。」と問いかけていることには気づかねばなりません。罪のない者がはじめて他人の罪をさばくことが出来るのです。彼女を訴えた者たちには、彼女の罪のことはどうでもよく、本当はイエスを訴える口実を作り出そうという魂胆があったわけですから(6)、表側の正義は見せ掛けだけで、心には非常に不純な思いがあったのです。主イエスのみことばは、それをえぐり出したと言えるでしょう。◇ひとり残された彼女は、この経緯をどのような思いで見ていたでしょう。殺されるかもしれないという死の恐怖から解放されて、彼女は今、主イエスとともにいるのです。ここでも主イエスは多くを語りません。「わたしもあなたを罪に定めません。」これは罪の赦しの宣言です。彼女は罪の裁き(死)から救われ、赦されているのです。ハレルヤ。私たちに必要なのは、この赦しと救いではないでしょうか。

《イスカリオテ・ユダ》

2003-02-16

ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった。 (ヨハネ13:30)

 

主イエスがユダを弟子のひとりに加えていたのも不思議なことですが、ユダにはユダの考えがあったようです。多くの人が想像しているように、彼はイエスを政治的な救い主と考えていたようです。◇当時のイスラエルは、ローマ帝国の圧政に悩み苦しんでいました。自国を愛する者ならだれでも、ローマの支配からイスラエルを解放してくれるメシアを求めていたのです。ユダもイエスにそのような期待を寄せる者のひとりだったのでしょう。ところが、そのイエスが人々の手に捕らえられ殺されてしまうというのですから、彼の失望は並々ならぬものだったのでしょう。ですから彼の裏切りは、主イエスに寄せる期待の最期の切り札だったのかも知れません。◇もち論、このようなメシア観は人間の側で勝手にこしらえたものですが、今日でもこのように考える傾向はあるのです。否、他の11人の弟子たちでさえ、そのように考えていた節さえあります。人は自分の苦しみに相当するメシアを考えてしまうのです。私たちは、ユダの心の中に「イエスに裏切られた。」という思いがあったことを無視することは出来ません。自分のメシア観を押し通す者は、やがて失望しなければならないのです。◇主イエスはユダに「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」と言われました。ユダはこのことばを聞いて、どんな気持ちで外に出て行ったのでしょう。今すぐとは、すでに自分の考えを実行に移す時が来たことを意味しています。主イエスの時とユダの時とが一致したのです。これが十字架の時なのです。救い主を裏切る時が、同時に救いが実現される時になっているのです。ハレルヤ。

《なぜ裏切る者が?》

2003-02-09

そのことが起こったときに、わたしがその人であることをあなたがたが信じるためです。 (ヨハネ13:19)

 

主イエスの弟子の中に、どうして裏切る者が加えられていたのか。これは昔から、多くの人が不思議に思うところです。ヨハネ6:64を見ますと、<イエスは初めから・・・裏切る者がだれであるかを、知っておられた>とあります。この言及は、私たちの疑問をさらに深めてしまいます。だれであるか知っておられたのなら、主はなぜその者を除かなかったのだろう。きょうのみことばは、このような私たちの疑問にある程度答えてくれるでしょう。◇まず預言の成就です(18)。これは詩篇41:9の引用ですが、<かかとを上げる>とは、裏切り行為のユダヤ的表現で、恐らく背を向けて去っていく姿を示しているのでしょう。主がこの旧約聖書のことばを引用されたのは、それが神の御旨であることを知っておられたからです。裏切りが起こる、そしてそれを通して救いが成就する。即ち、父なる神は、裏切りさえ救いの計画の中に組み入れておられたのです。◇ですから私たちは、裏切りが起こったことに驚いたり不思議に思うべきではありません。かえって、そのことが起こったことに、主イエスに寄せる信頼を深めなければならないのです(19)。裏切りは確かに他の弟子たちにショックを与えたでしょうが、私たちは、他の11人の弟子がひとりもつまずいていないことに感謝しなければなりません。彼らは、かえって信仰が堅くされたのです。◇主イエスを<受け入れた>からです(20)。一方裏切る者は、初めから自分の期待でしか主イエスを見ていないのです。自分が主を受け入れるのでなく、自分を主に受け入れさせようとしているのです。このちがいは実に大きいと言えます。

《主の洗足の意味》(2)

2003-02-02

それで、主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです。 (ヨハネ13:14)

 

主の洗足には、もうひとつ重要な意味がありました。主は、地上に残される弟子たちに、互いに仕え合うようにと模範を示されたのです。◇まずもう一度、足が身体の中のどういう場所かを考えておかねばなりません。足は、常に身体全体を支え、身体を他の場所に運ぶ活動の最も中心的な働きをする器官です。そのため、足は絶えず地面に接しており、地面の汚れを一番受けるところです。ですから、足は最も重要な働きを担いますが、それゆえに最も汚れているのです。主は、弟子たちのこの汚れた足を洗ってくださいました。今度は、互いにそれをするようにと教えておられるのです。◇勿論、他の人の足を洗うためには、その人の前で自らの膝を折り、かがみこまねばなりません。実は、私たちにはこれが出来ないのです。ペテロが一番若いヨハネの足を洗う場面を想像してみてください。私たちは、顎で指図するような仕え方は出来ますが、自分の膝を折ることが出来ないのです。私たちのプライドは、足を折るどころか、頭ひとつ下げるのも嫌なのです。しかし、<主であり師である>イエス様はそれをしました。どうして私たちが避けていてよいでしょうか。◇この相互洗足の姿勢を欠いているために、私たちはどれほど祝福を受け損なっているでしょうか。<それを行うときに、あなたがたは祝福されるのです。>と主は言われました。クリスチャンが祝福を受けそこなう理由の一つが無意識の高ぶりなのです(詩19:12,13)。「神は、高ぶる者を退け、へりくだる者に恵みをお授けになる。」からです(ヤコブ4:6)。みずからの膝を折ることによって謙遜を学びましょう。


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