浦和聖書バプテスト教会

3月, 2003年

《自分をみがく》

2003-03-30

もし斧が鈍くなったとき、その刃をとがないと、もっと力がいる。      (伝道者の書10:10)

 

まず、どうして斧が鈍くなるのかを考えておきましょう。長いこと使っていれば、どんなに精巧な斧でも刃がこぼれて鈍くなります。また、長いこと使っていなければ、錆びついて、やはり鈍くなります。◇いずれにしろ、鈍くなった斧は、そのままでは余計な労力を払わなければなりません。実は、多くの人が、ここに問題を抱えているのです。一生懸命力を尽くしているのに、その労苦の割には成果が生まれない。斧が鈍くなっていることに気づいていないのです。そして「こんなに努力してるのに、神様はなぜ祝福をくださらないのだろう。」と訝しがってしまうのです。人生は真面目に努力していればそれでよい、というような単純なものではありません。鈍くなった斧で力を尽くすがゆえに、かえって疲れ切ってしまうというようなこともあるのです。◇鈍くなった斧は、その刃をとがねばなりません。しかし残念なことに、斧は自分で自分をとぐことはできません。ここに、信仰をもつことの重要な意味があるのです。斧を手に握って用いる方がおられるのです。このお方こそ、斧の真実な状態を知っていてくださいます。刃がこぼれているのか、錆びてしまったのか、あるいは他に原因があるのか。ひとつひとつの斧にふさわしく、その刃をといでくださるのです。◇自分を神様のお取り扱いに任せましょう。斧が自己主張をして「ああしろ。こうしろ。」と、斧を握る者に指図することがあっていいでしょうか(イザヤ10:15)。それは人が神様を動かすことです。斧がその鈍さのゆえに、かえって高ぶりに陥ることもあるのです。信仰とは、自分の全てを全能なる神様にゆだねることです。<あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。>(詩篇55:22)

《モーセの十戒》

2003-03-23

あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。(出エジプト20:3)

 

出エジプト記20章には、有名な「モーセの十戒」が記されています。これは、神様がモーセを通して与えられた10の戒めで、昔から普遍律法と言われています。◇まずどんな内容の戒めかと言うと、前半の4つは(v3・4・7・8)神様と私たち人間の関係を規定した戒めで、後半の6つは(v12・13・14・15・16・17)人と人との関係を規定したものであることが分かります。これらの戒めを守って生きるところに、私たちの本物の人生があると神様は伝えておられるわけですが、お分かりのように、神様との関係を縦の関係、人と人との関係を横の関係と考えれば、本物の人生は十字架のクロスしたところにあると言うことができます。◇ところが現代の人々は、前半はまったく無視、後半もだんだん守らなくてもよいと考えるようになって来ているのではないでしょうか。<父母を敬え。>とか<殺してはならない。>とか<姦淫してはならない。>等は、もうどうでもよいようです。みんなが自分の好き勝手な生活を送っているのです。これは、当然と言えば当然です。人は縦の関係を失ったとき、横の関係をどこに位置づけたらよいか分からなくなってしまったのです。聖書の伝える罪人の姿とは、このように、神様との関係を失った人間の姿を指しているのです。◇こういう時代風潮の中にあって、私たちは何よりもまず、神様のもとに立ち返らなければならないのです。<あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。> これは単に他の宗教を禁じているのではありません。この世界の創造者であり支配者であられる唯一の絶対主権者を神とせよと命じているのです。私たちは、どんなお方を自分の神としてるでしょうか。

《クオヴァデス ドミネ》

2003-03-16

シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」 (ヨハネ13:36)

 

ここには、ペテロと主イエスとの個人的なやりとりが記されています。ペテロにとっては、互いに愛し合うことよりも、どうも33節の主のことばが気にかかっていたようです。◇このやりとりでまず教えられることは、主はペテロの現在の姿を全部ご存知であられたということです。<あなたは今はついて来ることができません。>それどころか、<鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。> これは、ペテロの心意気を削ぐようなことばですが、真実です。主はペテロの真実な姿を、ペテロ本人よりもよく知っていてくださったのです。その上で彼をみちびいておられるのです。◇そればかりではありません。主はペテロの今後さえも全て見通しておられるのです。<しかし後にはついて来ます。>本当にあなたは、わたしのためにいのちを捨てることになります。事実はその通りになっていったことを私たちは知っています。ペテロの最期は、ローマで逆さ十字架だったと言い伝えられています。今はついて行くことができないが、後にはついて行くことができる。これが主の取り扱いであり、私たちの希望なのです。◇クオヴァデスの言い伝えは、信仰の真髄をよく物語っているのではないでしょうか。この時は三度も主を否んだ弱いペテロが、再び「主よ。どこにおいでになるのですか。」と尋ねる時を迎えるのです。そしてその時は、今度は主とともに迫害の真っ只中にあるローマに帰っていくのです。私たちはどうでしょうか。「主よ。ローマに行って迫害の中にあるクリスチャンたちを助けてあげてください。私は逃げますから。」 こうでないことを祈るだけです。

《互いに愛すること》

2003-03-09

あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)

 

裏切り者ユダは外に出て行きました。もうすぐ、主イエスを捕らえるために、人々の手引きをしてもどって来ます。こういう緊迫した時間の中で、主はこの新しい戒めを与えられたのです。◇まず、この<新しい>ということに注意しましょう。互いに愛し合うことは、これまでにも何度も教えて来られた戒めです。しかし主は、これを新しい戒めとして与えられたのです。ですから、この<新しい>は、「ここで初めて聞く」という意味での新しいではありません。要するに、この戒めを古びたものにしてしまったり、心のどこかに忘れ去ってしまったりしてはならないということです。愛することは、頭で分かっていても、絶えず意識して取り組んでいかないとすぐ古びてしまうのです。◇次に、この戒めの標準の高さを覚えましょう。主は<わたしがあなたがたを愛したように、そのように>と言われます。これは何も、これまで主が弟子たちに示してきた愛だけを意味していません。翌日、主は彼らをあがなうため、十字架にご自分のいのちを犠牲にされます。<ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。>(ヨハネⅠ3:16)後にヨハネはこのように勧めています。プライドひとつ捨てられないでいる自分の姿を思い知らされます。◇最後に、互いに愛し合うことが、キリストの弟子であることのしるしとなる、と主が告げておられることを覚えましょう(35)。この点でも、後にヨハネは次のように語っています。<もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。>(ヨハネⅠ4:12) 神は愛ですから、やはり愛の中に臨在なさるのです。アーメン。

《神の時を生きる》

2003-03-02

ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今こそ人の子は栄光を受けました。 (ヨハネ13:31)

 

きょうのみことばは、ユダの裏切りが決行に移された直後に主イエスが語られたみことばです。いろんなことを考えさせられます。◇まず何よりも、人間の側の裏切りという最も卑劣な行為が、神の栄光の時となっていることです。もち論このことは、主イエス以外はこの地上のだれも知ることができません。残された11人の弟子たちも、「何が栄光なのか。」と首をかしげたことでしょう。神の栄光らしきものは、未だ何も現わされていないのです。それどころか、これからの時間は、神の栄光が人間の罪の力によって無惨に破壊されていく出来事が次々と生じていきます。そしてその頂点が、主イエスの十字架の死なのです。◇しかし主イエスは「・・・受けました。」と過去形で語られます。これは、ギリシャ語の文法上では「未来を現わす過去形」として扱われ、あいまいさのない神の確実な未来を意味していますが、私たちは、とてもそれだけで片付ける訳にはいきません。地上では何も見えませんが、神の時が流れているのです。御国の計画が着々と進められているのです。地上では卑劣な裏切り行為が始まっているのに、天の御国では、栄光授与式が始まっているのです。ハレルヤ。◇信仰とは、この天の時間を信じることではないでしょうか(ヘブル11:1)。そしてクリスチャンとは、この天の時間を生きる者ではないでしょうか。もし私たちが、ユダの裏切りを見て失望してるだけなら、それは神様ご自身に失望してることになるのです。私たちは、ユダの裏切りをしっかり見据えた上で、そこに神の栄光を見る者でなければなりません。「今こそ、私の人生はあなたの栄光を受けました。」と・・・


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