浦和聖書バプテスト教会

4月, 2003年

《神からの和解》

2003-04-27

私たちは、キリストの代わって、あなたがたに願います。神の和解を受け入れなさい。(コリントⅡ5:20)

 

人は神様に背いて来ましたし、今も相変わらず背き続けています。しかも、自分が神様に背いているということに気づこうともしないのです。◇神様からの和解ということを学ぼうとするなら、私たちはまず、人間のこの背神の事実を知らなければならないでしょう。実は似たようなことは、身近な人間関係において起こっていることでもあるのです。相手の人が怒っているのにそれに気づかず、こちらではにこにこしているということはないでしょうか。私たちはこういう人を「おめでたい。」といって非難するのですが、神様との関係においては、そういう訳で、全員が、おめでたいと言わねばなりません。イザヤという預言者は、こういう背神のイスラエルを厳しく責めています(イザヤ1:2~5)。もち論これは私たちの姿でもあります。◇しかし、きょう私たちが覚えたいことは、こういう背神の私たちに、神様の方から和解の御手を差し伸べられたという事実です。みことばは続けて次のように語っています。<神は、罪を知らない方を、私たちの代わりに罪とされました。それは、私たちが、この方にあって、神の義となるためです。>(21) 罪を知らない方とは、もち論

私たちの主イエス・キリストです。主イエス・キリストの十字架の死は、神様の和解のためのみわざであったのです。ハレルヤ。◇これも身近な人間関係である程度は説明できます。何らかの罪で相手の人を怒らせてしまった時、その人の方から和解の手が差し伸べられているのです。もしこれを振り払ったら、断絶はますます深まるばかりでしょう。<神の和解を受け入れなさい。> 何もかも帳消しにして、神様の方から和解してくださっているのです。

《よみがえりの奇跡》

2003-04-20

神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。 (ペテロⅠ1:3)

 

きょうのこのみことばは、主イエスのよみがえりと私たちが新しく生まれ変わることとが、切っても切れない関係を持っていることを明らかにしています。◇この関係を合理的に説明することはなかなか出来ないことですが、私たちは、主イエスによって新しく生まれ変わった人たちが一様に主イエスのよみがえりを信じていることは確認することができます。即ち、新しく生まれ変わっている人で、主イエスのよみがえりを信じていない人はひとりもいないということです。もっと言い換えれば、人は新しく生まれ変わるためには、どうしてもイエス・キリストのよみがえりを信じなければならないのです。◇なぜならば、<主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。>(ローマ4:25)。天の神様は、御子を死者の中からよみがえらせることによって、私たちの罪に対する完全な勝利を明らかにされたのです。ですから、よみがえりは二重の意味において神の奇跡なのです。ひとつは御子において、もうひとつは、よみがえりを信じる私たちの新生の恵みにおいてです。◇私たちは、新しく生まれなければなりません。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできないからです(ヨハネ3:3)。しかし私たちは、どうしたら自分を新しく生まれ変わらせることができるのでしょう。それは人にはできないことです。主イエスのよみがえりを信じること以外に、新生の可能性はないのです。<だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。>(コリントⅡ5:17)アーメン。

《不変なるもの》

2003-04-13

私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。 ・・・略・・・ 人は神を恐れなければならない。 (伝道者の書3:14)

ソロモンが語ったこの一連の聖句には、この世の中には、時とともに移り変わっていくものとそうでないものとがあることが示されています。◇しかし、一般的には、人々は移り変わっていくものには敏感に反応しますが、不変なるものにはほとんど気にも留めてないのではないでしょうか。<神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。>(11)とありますように、人間には本来、不変なるもの、永遠なるものに心を向ける資質がそなえられているのです。しかし、現実には、そういう心の働きを用いて自分の人生を築き上げている人は本当に少ないと言わねばなりません。私たちの日常は、どうしても目先のこと、一時的なこと、この地上のことに心を奪われてしまうのです。◇もし私たちが、少しでも不変なるものに心を向けることができるなら、もっと神様のなさることを発見できるでしょう。<私は知った。>とありますように、この地上の全ては、神のなされる永遠に変わらないことによって成り立っているのです。私たちは、これを見極め、神を恐れて生きて行かねばなりません。パウロという人も次のように語っています。<私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。>(コリントⅡ4:18) ◇このことは、何も深遠な哲学でも特別に神秘的なことでもありません。ソロモンは<食べたり飲んだり>する極めて日常的な事柄の中に<神の賜物>があることに気づいたのです(13)。<すべての営みに時がある>(Ⅰ)ように、誰もが送っている日常的な事柄の中に、不変なるもの、永遠なるものがあるのです。

《神の時・人の時》

2003-04-06

天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。(伝道者の書3:1)

 

この地上の全ての事柄に神様の主権的な時があることを、どれだけの人が認めているでしょうか。これは、少し考えてみれば分かることです。◇<生まれるのに時があり、死ぬのに時がある。>(2)とあります。だれも自分で時間を定めて生まれてきた人はいませんし、時を選んで死んでいく人もいません。 たとえ、春に花(桜)の下で死んで生きたいと願っても、そのとおりになるとは限りません。実は、生死という運命的な事柄だけでなく、私たちの<すべての営み>に、このようにあらかじめ定められた神の時があるのです。◇ところが人間は、この神の時を無視し、それを自分の時としてしまいました。これも罪人のひとつの特徴と言わねばなりません。たとえば<死ぬのに時がある。>と言われていますが、人はこの時を自分勝手に定めてしまいます。自殺です。死の時を自由に定めることができると言うなら、人は永遠に生きることもできる筈です。<植えるのに時があり、>と言われていますが、春の種蒔きを2ヶ月早めたらどうでしょう。種は凍り付いて死滅してしまうでしょう。 2~3日の時間の自由を、あたかも永遠の自由のように思い込んでいるところに、人間の愚かさと傲慢さがあるのです。◇私たちは、神の時を見定め、神の時を生きなければなりません。v7には<黙っているのに時があり、話をするのに時がある。>と言われています。話したり黙ったりすることにさえ、神の時があるのです。v11には<神のなさることは、すべて時にかなって美しい。>とあります。神の時が私の時と一致するとき、人生は祝福で満ちていくのです。神の時を取り違えていないでしょうか。


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