浦和聖書バプテスト教会

5月, 2003年

《そよ風の吹くころ》  

2003-05-25

そよ風の吹くころ、彼らは園を歩き回れる神である主の声を聞いた。それで人と妻は、神である主の御顔を避けて園の木の間に身を隠した。 (創世記3:8)

 

賢くなるということは人間の最たる誘惑の根源です。

誰もが賢くなりたいと願います。賢いことを願うことは人類が始まってから続いている願望です。その動機をつきつめて考えますと、神のようになりたいという答えがあることがわかります。その力を手に入れたいとする私たちが発する言葉は「賢くなる」なのです。(創3:6)◇私たちは不足をつねに心のうちに抱えております。充足を得るために賢さを要求します。自分の賢さ、つまり能力や知性などを動員して自分の望むままを行いたい。それができたなら幸せを獲得できると考えているのです。◇はたして、自分たちは、自分の欲望を満たそうと自分の賢さのうちに生きてきましたが、それが一体自分をどれだけ幸福や満足に導いてきたのでしょうか?現実はどうでしょう。振り返ってみて、心の現実を覗いてみると、いまだに不足を抱えている、あるいはひどくなっていることに驚きはしないでしょうか。それはまさに私たちの心の赴くままに行い、その結果は裸を知ったというアダムたちの姿にぴったりと符号します。私たちはその裸を隠しつつ生きています。いや、覆い隠すどころか、さらに豪華な衣装を身にまといつつ、“自分は賢い”という愚かさを念入りにひた隠そうと懸命になってはいないでしょうか。(創3:7)◇そうした裸の私たちに対して、主はこう呼びかけます。「あなたは、どこにいるのか。」と。そう呼びかけてくださっている主にたいして、あなたはどう応えるのでしょうか。(創3:9)                (文・ 高木)

《しいたげと空》 

2003-05-18

私は、まだいのちがあって生きながらえている人より、すでに死んだ死人のほうに祝いを申し述べる。(伝道者の書4:2)

 

「これは神様を信じている人のことばではない。救われてない人のことばだ。」 あまりに絶望的な虚無のゆえに、多くのクリスチャンはこう叫ぶでしょう。しかしこれは、れっきとしたソロモンのことばです。◇彼はまず、この世の中で行われている<しいたげを見た。>のでした。彼自身は、当時最高権力者の地位にありましたから、しいたげることはあっても、しいたげられることはまったくない人でした。その彼が、世の中の隅々まで目を及ぼし、あらゆる所で公然と行われているしいたげを見たのです。そして、しいたげられている人々の絶望的な姿、最高権力をもってしても救い難い状況を知ったとき、彼自身も絶望し、このような虚無の境地に至ったのです。◇実際に、当時の社会状況を考えると、平等、公平といった個人的人権が社会の一般原則として認められている今日の社会からは、想像もできないしいたげが行われていたことでしょう。富める者はますます富み、権力者は思いのままに権力を振るい、反面、貧しい者、弱い者はとことんしいたげられていたのです。諸国の王となったソロモンでさえ、こういった社会の不条理、矛盾をどうすることもできなかったのです。◇ソロモンは思ったことでしょう。この人々は何のために生まれてきたのか。ただ苦しめられるためにのみ生きていくのか。こんな苦しみを負い続けて行かなければならないのなら、いっそ死んだほうがましだ。ここに、ソロモンの虚無のことばが生まれてきているのです。私たちは、簡単に、「こんな虚無的なことばは不信仰だ。」と言ってしまってよいのでしょうか。

《死ぬということと空》 

2003-05-11

人の子の結末と獣の結末とは同じ結末だ。これも死ねば、あれも死ぬ。(伝道者の書3:19)

 

ここには、ソロモンが空を悟った中で、死ぬということをどう捉えていたかが語られています。◇まず、私たちにも分かる面です。彼は、この面では、人の死と獣の死に何の優劣もないことを示します。<これも死ねば、あれも死ぬ。・・・みな同じ所に行く。すべてのものはちりから出て、すべてのものはちりに帰る。> これは、人間の死をいかに美しくカモフラージュしようと、決して否定できない事実です。ソロモンの偉大なところは、生きることにおいて、この厳然たる事実を踏まえていたことでしょう。人生は、自分がやがてちりに帰らねばならない存在であることを悟るところから出発しなければなりません。◇しかし、死には、私たちにはよく分からないもうひとつの面があります。<だれが知っているだろうか。人の子らの霊は上に上り、獣の霊は地の下に降りて行くのを。> 12:7には同じように<ちりはもとあった地に帰り、霊はこれを下さった神に帰る。>と言われています。これは、人間が単に肉体だけの存在ではなく、霊を持った存在であることを明らかにしていますが、死とは、肉体と霊との分離であると言うことができます。もち論、霊は不滅です。神に帰るのです。◇私たちは、自分の死をこの両面から捉えていないと、正しく生きることはできません。近代人の失敗は、目に見えない霊を否定し、人間の死を単に肉体の死としてしか捉えていないことです。否、それどころか、肉体的な死でさえ、あり得ないこと、あってはならないことと考えているのです。これでは空を知ることはできませんし、神様と出会うこともできません。空を悟るということは、生きながら死んでいることなのです。

《空を知る》

2003-05-04

空の空。伝道者は言う。空の空。すべては空。(伝道者の書1:2)

 

ソロモンほど人生の空しさを極めた人はいないでしょう。彼はあらゆる楽しみ、喜びを思いのままに味わい尽くした末、「人生は空しい。」と悟ったのです(2:1~11)。◇もち論、さまざまな快楽を懸命に追求してる最中は、空しいなどとは露ほども感じなかったでしょう。彼は愚かになって、あらゆる楽しみを追い求めたと述懐しています(2:3)。<事業を拡張し、邸宅を建て、ぶどう畑を設け・・・>とやっている時は、それに人生の意義があると考え、むしろ充実感さえ覚えたでしょう。<しかし、私が手がけたあらゆる事業と、そのために私が骨折った労苦とを振り返ってみると、なんと、すべてがむなしいことよ。風を追うようなものだ。>(2:11)。これが彼の行き着いた結論でした。◇私たちは、私たちの大先輩のこのことばに、心して耳を傾けるべきではないでしょうか。人生には何か意義があるはずだと考えて、<事業を拡張し、邸宅を建て、・・・>とやっているところに、私たちの幻影があるのです。それらはやがて夢のように過ぎ去って行くものなのです。このことに気づかないでいるから、神様を見出せないで、かえってさまざまな欲望と煩悩に苦しめられているのです。事業を拡張して神様を見出した人がだれかいるでしょうか。邸宅を建てて救いを経験した人がだれかいるでしょうか。◇人生は<空の空。すべては空。>なのです。しかし、だからこそ、私たちは心を神様に向けることができるのです。空を知る者こそ神を知れるものです。ソロモンがこの書の最期に語っていることばに注目しましょう。<結局のところ、もうすべてが聞かされていることだ。神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。>(12:13)


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