浦和聖書バプテスト教会

6月, 2003年

《主イエスのとりなし》

2003-06-29

聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください。(ヨハネ17:11)

 

ここで主イエスは、世のためでなく、クリスチャンたちのためにとりなしの祈りをしておられます(9)。◇これはすでに触れられているように(6)、クリスチャンたちが、この世にあって特別な存在であることに由来したみことばです。ここでもクリスチャンたちは<あなたがわたしに下さった者たち>と言われています。私たちはもう一度、自分が世から取り出されてキリストのものとされた者だということを覚えなければなりません。私たちはすでに、自分を自分のものと考える資格さえ持っていないのです。なぜなら、私たちはすでに贖われた者(代価を払って買い取られた者)だからです。◇そして今、主イエスは<わたしはかれらのためにお願いします。>と祈っておられるのです。もとよりこのことは、主イエスがこの世のことを一切無視しておられたと言うことではありません。関心の度合いと質のちがいを意味しているのです。即ち、御名の中に保たれるのは、この世という全体ではなく、この世から贖い出された者たちであるということです。私たちはここに、世に属する者たちと私たちとの、目に見えない決定的なちがいを覚えなければなりません。

◇私たちは、主イエスのとりなしによって、御名の中に保たれている者なのです。V12のみことばも、単に弟子たちとユダのことではなく、私たちの現実でもあるのです。私たちは、主イエスによって、御名の中に保たれ、守られているのです。クリスチャンがこの霊的真理を忘れていると、その信仰生活はどうしても自己中心的になってしまうのです。困った問題は常に私が優先するところに生じてくるのではないでしょうか。

《力は神から来る》

2003-06-22

しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、鷲のように翼をかって上ることができる。走ってもたゆまず、歩いても疲れない。  (イザヤ40:31)

 

今日ほど、人々が心の疲れを訴えている時代はないでしょう。物は豊かになり、生活はますます便利になっているのに、心のゆとりを見出すことができず、かえって得体の知れない不安にさいなまれているのです。イザヤは<若者も疲れ、たゆみ、若い男もつまずき倒れる。>(36)と語っていますが、今の時代は、このことばがぴたりと当てはまるのではないでしょうか。肉体の疲れなら、ゆっくり休養をとって栄養剤でも飲めば何とかなりますが、心の疲れは、如何ともしがたいものがあります。特に深い悩みを抱えたときなどは、スタミナドリンクでは何の役にも立ちません。今の時代は心の方から崩れていく時代と言ってよいでしょう。◇こういう時代を生き抜いていく者として、私たちは、心の力をどこに求めたらよいでしょう。イザヤは<しかし、主を待ち望む者は新しく力を得、・・・>と言います。あらためて、信仰の持つ重要な意味を覚えます。私たちは、決して、時代の被害者になり下がる必要はないのです(27)。<あなたは知らないのか。聞いていないのか。主は永遠の神、地の果てまで創造された方。>(28)私たちを罪の支配から救い出してくださり、逞しく生きる力を与えてくださるのは、この創造者なる神なのです。◇私たちは、今こそ、このお方を信頼し、このお方を待ち望まねばなりません。私たちのたましいは、みんな神様の救いを必要としているのです。主は<疲れた者には力を与え、精力のない者には活気をつける。>(29)お方です。大切な自分の心、疲れたままに放って置かないで、主なる神の豊かな救いといやしをいただきましょう。

《御名を知れる者》

2003-06-15

わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。 (ヨハネ17:6)

 

主イエスを信じているクリスチャンとは、どんな人々なのでしょうか。この最後の祈りの中で、主はそれを明らかにしています。◇まず第1に、クリスチャンとは、世から取り出されて主イエスのものとされた人々です。即ち、もはや世に属する者ではなく、すでにキリストに属する者であると言うことです。普通これは「神の選び」と言われていることですが、私たちの人生の中で最も不思議な出来事と言ってよいでしょう。他の箇所で主は<あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び・・・>(15:16)と語っておられます。私たちはまず、この自覚を持つことが必要でしょう。◇次に、クリスチャンとは、神様の御名を知らされた者です。もち論、名は実体を意味します。主イエスは、他の何者でもなく、神ご自身を明らかにされたと言われているのです。ヨハネはすでにこの福音書の初めにおいてこのことに触れ、<いまだかつて神を見た者はいない。父のふところにおられるひとり子の神が、神を説き明かされたのである。>(1:18)と語っています。私たちは、主イエスを見ることによって、神そのお方を知ったのです。◇では最後に、どうしてこのようなことが起こり得たのでしょう。その理由がv8に示されています。私たちが主イエスを知ったのも、主イエスを遣わされた父なる神を知ったのも、主の語られたみことばを受け入れたからだというのです。ここに、みことばの不思議な力を覚えます。主を知るということは、みことばを受け入れることなのです。みことばを受け入れなければ、神様は不知なるお方、キリストはただの人で終わってしまうのです。

《何のための栄光か》

2003-06-08

父よ。時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現わすために、子の栄光を現わしてください。 (ヨハネ17:1)

 

ご自分が十字架につく時が来たことを知られると、主イエスはまず、栄光を与えてくださいと祈りました。v5も同じです。これはどんな祈りなのでしょうか。◇第一に注意しておかねばならない点は、主は、父に栄光を返すために自分の栄光を求めていることです(姿勢)。これは主イエスの全生涯を貫いている徹底した御姿でしょう。主は何を求めるにしろ、自分を喜ばせるためや自分を楽しませるために求めることはしませんでした。十字架の栄光は、父の栄光であり子の栄光であったのです。父とひとつになっていることは、こういった観点からも測られねばならないでしょう。◇第二に注目したいことは、それではその栄光は何のために求められたかということです(目的)。この答えがv2,3に示されています。これは簡単に言えば、私たちに永遠のいのちを与えるためであるということです。ですからここでは、永遠のいのちとは何かという定義はしていません。どうしたらそれが得られるかが語られているのです(3)。三位一体の神様を知ること、それが永遠のいのちなのです。神様を知らないが故に、自分に永遠のいのちが与えられていることが分からないでいる人が多いのではないでしょうか。◇第三に覚えたいことは、この栄光を得るために、主イエスは父から与えられたわざを行った(4)ということです(責務)。もち論、これが十字架にかかることで、明日に迫っていることでしたが、主はすでにそれを<成し遂げた>と言われます。主が一端心に決められたことは、明日であろうと未来であろうと、すでに成し遂げらたのです。アーメン。

《時が来た》

2003-06-01

イエスはこれらのことを話してから、目を天に向けて、言われた。「父よ。時が来ました。(ヨハネ17:1)

 

この17章には、捕縛を直前に控えて、弟子たちの前で祈った主イエスの最後の祈りが記録されています。◇まず主イエスは、<父よ。時が来ました。>と祈り始められます。時とは、もち論、十字架にかけられる時、あがないのみわざを実行する時という意味です。旧約聖書には<天の下では、何事にも定まった時期があり、すべての営みには時がある。>

(伝道者の書3:1)とありますが、主イエスも、ご自分が十字架につく時をちゃんとわきまえていたようです。それは父なる神が定めておられた時であり、主イエスにとってはそれを実行する時でありました。即ち、父の時と子の時が、少しもずれることなく、まったく一致しているのです。◇主イエスが、このように、十字架の時をわきまえるには、それなりの確固とした根拠がありました。それは、翌日がちょうど過越しの祭りの「小羊をほふる日」に当たっていたからです。過越しの祭りの由来はご存知でしょうが(出エジプト記11~13章)、エジプト全土に及んだ主の恐ろしいさばきは、家の門柱とかもいに塗られた小羊の血によって過ぎ越されたのです。主イエスは、ご自分がこの過越しの小羊となって十字架につくことを知っておられたのです。◇ですから主イエスは、決してこの「時」から逃れようとはしませんでした。私たちと同じ肉の衣をまとっていた主イエスですから、<父よ。みこころならば、この杯をわたしから取りのけてください。>という願いはありましたが、その歩みはあくまでも<しかし、わたしの願いではなく、みこころのとおりにしてください。>であったのです(ルカ22:42)。ハレルヤ。


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