浦和聖書バプテスト教会

7月, 2003年

《なくなる食物のためでなく》

2003-07-27

なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。 (ヨハネ6:27)

 

このヨハネ福音書6章の初めには、主イエスが5つのパンと2匹の魚で5000人の人々をを養われたと言う有名な奇跡が行われています。◇人々は、ただ主イエスについて行っただけでパンをたらふく食べることができたのですから(12)、こんないいことはありません。何の働きもしないのにパンに与かれるなら、汗を流して働くこともありませんし、仕事のために悩むこともありません。不況などということも関係なくなるでしょう。ですから人々は、主イエスを自分たちの王様にしようとしたのです(15)。V26の主イエスのみことばは、人々のこういう現金な姿を見抜いてのことばなのです。◇主イエスは、こういう「物とお金」だけのために生きている人々に、さらに続けてつぎのように語りかけます。<なくなる食物のためではなく、いつまでも保ち、永遠のいのちに至る食物のために働きなさい。>と。ここには二種類の食物があることが示されています。最初の食物のことはだれにもよく分かるのですが、問題は二番目の食物のことです。永遠のいのちに至る食物とは何を指しているのでしょう。この後に明らかにされますが、実は主イエスご自身を指しているのです(35)。◇人は、体だけの存在ではなく、心を持っています。しかし、体のための食物のためにはよく働くのですが、心の食物のためには何もしていないというのが現実ではないでしょうか。日本人は、戦後50年を過ぎたというのに、まだ相変わらず「物とお金」のためだけで生きているのです。そろそろ<永遠のいのちに至る食物>のために働き出していく必要があるのではないでしょうか。

《主とともにあるために》

2003-07-20

父よ。お願いします。あなたがわたしにくださったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。(ヨハネ17:24)

 

主イエスの公生涯最後のとりなしの祈りから学んで来ましたが、最期に主は、私たちが主のおられる所にともにいることができるようにと祈って、この祈りを閉じています。◇主イエスのおられる所にともにいる。これは私たちクリスチャンの願いです。主がおられなければ主の栄光は現されません。当然です。また、主が栄光を現されても、そこに私がいなければその栄光を見ることは出来ません。主イエスとともに歩むことは、主の栄光を見るための絶対必要条件なのです。◇しかしこれが大変難しいことであることは、この後の弟子たちの歩みを見ればよく分かります。主が十字架についたときには、主とともにいる弟子はひとりもいなかったのです。人は楽しく思えることや幸福感を覚えられることにはついて行きますが、苦しいことや辛いことからは遠ざかろうとします。まして十字架を負わねばならないことからは逃げ出してしまうのです。こういう人間の現金な姿は、聖書を通しても見ることが出来ます。しかし、主イエスが十字架に向かうなら、私たちも十字架に向かわねばなりません。主イエスが十字架につくなら、私たちも十字架につかねばなりません。それが、主イエスとともにいるということなのです。◇私たちは、十字架にこそ主の最高の栄光が現されていることを知っている者ではないでしょうか。十字架こそ神の至上の栄光です。私たちはこの十字架によって罪が赦され救われているのです。ですから、十字架から絶対に逃げてはならないのです。十字架の恵みを受けた者は、十字架の恵みを与える者でもあるのです。

《クリスチャンの聖別》  

2003-07-13

真理によって彼らを聖め別ってください。 (ヨハネ17:17)

 

ご自分の時が来たことを知られた主イエスは、最後に、残される弟子たちのためにとりなしの祈りをささげられました。ここでは、彼らが聖め別たれるようにと祈っています。

◇まず、どうして聖別される必要があるかです。<わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものではありません。>(16)と主は言われました。これは、この長い祈りの中で何度か触れられていることですが(v6,14)、主イエスを信じた者は、すでに世に属する者ではなく、キリストに属する者とされているからです。だからクリスチャンなのです。パウロは、私たちの国籍は天にあると言いましたし(ピリピ3:20)、ペテロは、クリスチャンはこの世にあっては旅人であり寄留者であると言っています(ペテロⅠ2:11)。◇では次に、私たちはどのようにして聖別されるのでしょう。主は<真理によって彼らを聖め別ってください。あなたのみことばは真理です。>(17)と祈っておられます。私たちは、みことばによる以外のきよめをあまり信頼すべきではありません。詩篇119の著者は次のように語っています。<どのようにして若い人は自分の道をきよく保てるでしょうか。あなたのことばに従ってそれを守ることです。> また、<あなたに罪を犯さないため、私は、あなたのことばを心にたくわえました。>とも語っています。◇最後に、私たちが聖別される目的は何でしょうか。私たちが立派な人格者になることでもなく、まして幸せになることでもありません。主は<あなたがわたしを世に遣わしたように、わたしも彼らを世に遣わしました。>(18)と祈られました。私たちは、聖別されて再び世に遣わされているのです。もち論、キリストの証人としてです。

《 ビジョン 》

2003-07-06

幻がなければ、民はほしいままに振舞う。箴言29:18

 

夢を失ってから久しいこの時代。何もかもが整われてはおります。整えられたことが、私たちに何をもたらしたのかといえば、私たちを地上に縛り付け、夢を持てなくしているというのが本当のところではないでしょうか。◇そうした時代の傾向は私たちにも当てはまるのではないでしょうか。みことばに関心が向かなくなり、まるで空文であるかのように受け止めてはいないでしょうか。みことばが生活に適用されないことばかりか、主がしてくださることを思わずに、自分ができることしかしないという態度に表れます。良く言えば現実的ともいえますが、その本質を見てみますと放縦があります。ほしいままに振舞うという姿です。そこには、幻(ビジョン)がないことに問題があるのだと箴言は伝えております。(箴言29:18)◇さて、ヘブル書に目を転じますと、いにしえの偉人たちの姿がよみがえってくるのです。彼らを一言で表現するならば、信仰でありました。(ヘブル11:1)その信仰によって彼らは賞賛されたのです。(ヘブル11:2)彼らは決して夢想家ではなく、現実に対して実際的に対応できる人々でありました。ところが、彼らは目に見えない世界をじっと見つめて離さないものがあったのです。それこそが信仰の中心である、天の御国というビジョンでした。(ヘブル11:16)◇ですから、この世に生きていましても、彼らは現実にとらわれることがなく、寄留者として歩みつづけることができたのです。(ヘブル11:13)いかなる境遇にあろうとも、彼らの心のうちには、つねに主と天の御国がありました。目に見えない天の御国をあこがれとして見つめつづけていた彼らの姿勢から、私たちに問われることとは一体何なのでしょうか。                 (文:高木)


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