浦和聖書バプテスト教会

8月, 2003年

《肉を食べ血を飲む》

2003-08-31

わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。(ヨハネ6:54)

 

日本に初めてキリスト教が伝えられた頃、この主イエスのみことばは、人々に大きな誤解を与えてしまったそうです。キリスト教は何と野蛮で血なまぐさい宗教だろう、ということだったようです。◇今日ではこんな誤解をしてる人はひとりもいませんが、ではその本当の意味は何なのかと問うならば、実に多くの人が答えられないのが現状ではないでしょうか。実は、このみことばこそ、主イエス・キリストがその生涯の終わりに為し遂げられた十字架の贖いを指し示しているのです。このみことばがいつ頃語られたのか今では確かめようもありませんが、主が、自分はどんな死に方をするか、また何のために死ぬかを予め知っておられたということだけは確かなようです。◇主は十字架の上でご自分の肉体を引き裂き、尊い血潮を流してくださいました。私たちを罪と死の束縛から救い出すためです。これは聖書が伝える最も重要な使信(メッセージ)です。福音とはこれしかないのです。主は<わたしの肉はまことの食物、わたしの血はまことの飲み物>(55)と言われました。まこととは、これ以外にないという意味です。私たちの身代わりとなって死んでくださり、3日目に罪と死に打ち勝ってよみがえられた主イエスだけが、私たちを救い得るお方です。◇私たちは、このお方の肉を食べ血を飲まなければなりません。そうしなければ、私たちの内に新しいいのちは生まれて来ないのです(53)。いのちとは、イエス・キリストそのものです。キリストの肉が私の肉となり、キリストの血が私の内に流れるとき、私たちは生きた者とされるのです。<わたしが父によって生きているように、わたしを食べる者も、わたしによって生きるのです。>(57)

《神に知られていること》

2003-08-24

主よ。あなたは私を探り、私を知っておられます。 (詩篇139:1)

 

神様は、私たちひとりひとりのことをすべて知っておられるお方です。これはなにもクリスチャンだけに限りません。私たち全員が<神の中に生き、動き、また存在しているのです。>(使徒17:28) ◇しかしこのことは、救われている者とそうでない者とでは、その方向において大きな違いがあることを知っておかねばなりません。罪赦されて義と認められている者には、悔い改めと赦しの恵みにみちびかれるために知られているのですが、救いを拒む者には、神の峻厳なさばきを受けるために知られているのです。この点は、この詩篇を学ぶ前に知っておかねばならない大切なことです。◇もち論、この詩篇では、主に知られていることが大きな祝福として語られています。即ち、主に知られていることは、恐れではなく、心に平安と喜びをもたらすのです。これは人生で繰り返しなされていく悔い改めの恵みとなって現れてきます。クリスチャンの方々は、悔い改めが出来た時の平安と喜びを知っているのではないでしょうか。私たちは、その時、主が最も近くにおられると感じるのです。◇ですから、私たちは決して孤独ではないのです。真の理解者がいてくださるからです。私たちが孤独感を味合わねばならないのは、他の人に過剰な理解を求めるからです。問題が深刻なものであればあるほど、人に理解を求めることには失望が伴います。分かってもらえなくてさびしい思いをしたことは、誰にもあることではないでしょうか。しかし全知全能の主は、私たちのすべてを正確に知っていてくださり、私たちを天の恵みへとみちびいておられるのです。主が、知っているだけで何もしないということはあり得ないからです。

《ユダヤ人のつぶやきに対して》

2003-08-17

わたしは、天から下って来た生けるパンです。だれでもこのパンを食べるなら、永遠に生きます。(ヨハネ6:51)

 

ここにはまず、ユダヤ人たちが主イエスにつぶやいている姿が記されています。つぶやきとは、心の中にある不平、不満・怒り、憤りを小さな声で表すことです。私たちは、ユダヤ人たちのつぶやきが何処から来ているか探ってみなければなりません。◇端的に言って、彼らのつぶやきは、信じることが出来ないことから来ています(42)。彼らの目は外に現れた事柄にのみ拘束されていて、そこに隠されている神の事柄を見られなかったのです。こんな言い方が出来るでしょう。彼らにとって、イエスはイエスでしかなく、イエスがキリスト(救い主)であることは受け入れ難かったのです。これはある種の心の葛藤ですが、キリストを目の当たりにしながら尚信じられないでいる人の心の状態をよく示しているのではないでしょうか。これも不信仰であることには違いありません。◇主イエスはこういう彼らに答えて、新しいことは何も語っていません。「わたしこそ、天から下ってきた生けるパンです。わたしを食しなさい。」と勧めています。パンは食すること以外に味合うことは出来ません。ユダヤ人たちは、食することをしないで、吟味しようとしたのです。しかもその方法は、人間の目で確認できる方法に限られていたのです(46)。◇信仰とは、イエスがキリスト(救い主)であると信じることです。イエスがイエスであることはだれもが認めることですが、イエスがキリストであることは信じること以外には認めることは出来ないのです。この世の考え方では認識が信頼に先立つでしょうが、神の国では信仰が認識に先立っているのです。信じなければ、イエスの中にキリストを見ることは出来ないのです。

《 来る者は捨てない 》

2003-08-10

父がわたしにお与えになる者はみな、わたしのところに来ます。そしてわたしのところの来る者を、わたしは決して捨てません。  (ヨハネ6:37)

 

きょうの一連の主イエスのみことばは、神学的にも重要な意味を持っています。それは普通「聖徒の保持」といわれている教理を明示しているからです。◇まず私たちは、この教理を学ぶ前に、ある種の人々が抱えている自信の無さから来る信仰の不安定さを覚えておく必要があります。自分の弱さを知れば知るほど、自分には信仰生活をまっとうすることは出来ないのではないかと不安を覚えている人が現実におられるからです。この人々は、自分がいつかユダのように主イエスを裏切ることになるに違いないと本当に恐れているのです。中には、信仰を持つ前からこの恐れを想定してしまって主イエスを信じることが出来ないでいる人さえいるのです。◇この人々はある意味では自分に正直なのかもしれません。と言うのは、自分の意志で信仰生涯をまっとうできる人はひとりもいないからです。主イエスを三度も否んだペテロはその良い例でしょう。「私こそは・・・」という自信が、困難や死の危険にさらされると、実にもろく崩れ去ってしまうのです。人間的な自信は、かえって信仰生活の妨げになってしまいます。かといって、まったく自信が持てなかったら、私たちは前に進むことが出来ません。◇ここに、きょうの主イエスのみことばの重要な意味があるのです。主は<わたしのところに来る者を、わたしは決して捨てません。>と約束しておられます。「拒まない」ではなく「捨てない」と言っておられる点に注意しなければなりません。私たちは、主イエスによって護られて歩んでいくのです。実に、終わりの日のよみがえりに至るまで。ハレルヤ。

《 いのちのパン 》

2003-08-03

イエスは言われた。「わたしがいのちのパンです。わたしに来る者は決して飢えることがなく、わたしを信じる者はどんなときにも、決して渇くことがありません。 (ヨハネ6:35)

 

先週私たちは、私たちには肉体を養うパンだけでなく、私たちのたましいを養うパンが必要であることを主イエスのみことばから学びました。きょうのみことばでは、そのパンこそ主イエス・キリストご自身であることが明らかにされています。◇まずこのパンが<天からのまことのパン>とか<神のパン>とか<いのちのパン>とか呼ばれていることに注意しましょう。私たちのたましいを養うパンは、神様によって天から与えられたものであり、私たちにいのちを与え続ける食物で、これを食するとき飢えることも渇くこともないと語られています。しかも人々との対話の中で、イスラエルの歴史的な出来事を通して、このパンが肉体を養うパンとはまったく異質なものであることが明らかにされているのです。◇私たちはあらためて、私たちの信頼している主イエスが、このような<いのちのパン>であることを覚えねばなりません。三つの点に留意しましょう。第一は、このパンが私たちクリスチャンの力の源だという点です。肉体の力が肉体を養うパンから与えられるように、私たちのたましいの力はこの霊の食物から来るのです。次に第二に、肉のパンが毎日必要なように、このパンも毎日食する必要があります。即ち一週間に一度の食いだめは効かないのです。このパンを毎日食さなければ、私たちはやせ衰え、力を失ってしまいます。第三に、私たちがクリスチャンとしてよき働きをするためには、このパンを十分に摂る必要があります。特に重要な課題や困難な問題に取り組むときはそうです。


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