浦和聖書バプテスト教会

9月, 2003年

《救い主、贖い主が来る》

2003-09-28

 

しかし、シオンには贖い主として来る。ヤコブの中の、そむきの罪を悔い改める者のところに来る。(イザヤ59:20)

 

この59章には、救い主がどうして贖い主としてこの地上に来なければならないかが預言されています。◇まず最初に、人間がどうしようもない罪の中を歩んでいることが明らかにされています(v1~8)。v3からは様々な具体的な罪が羅列されていますが、これらは今日の私たちの社会でも、どこにおいても確認することができる罪ではないでしょうか。私たちは、これらの罪を重ねることによって、確かに、神様と断絶状態に陥ってしまっているのです(v1,2)。◇次に、その罪の結果どうなってしまったのかが預言されています(v9~15)。<私たちは光を待ち望んだが、見よ、やみ。輝きを待ち望んだが、暗やみの中を歩む。>とあります。これはまさに、私たちの社会の現実ではないでしょうか。人はみな、輝きを求めて、悩み苦しみ努力してるのです。それなのに相変わらず、やみが濃くなって行くのです。罪の解決されてない時代は、人間のあらゆる努力がむなしく終わるということをあらためて覚えねばなりません。◇しかし、あわれみ深い神様は、こういう人間の世界を放っておかれたのではありません。<主はこれを見て、公義のないのに心を痛められた。>とあります。そして何をなしてくださったかと言うと<ご自分の御腕で救いをもたらし>てくださったのです。これが御子イエス・キリストです。御子は私たちの罪を贖うため、そして私たちを再び神様との交わりに回復するために来てくださったのです。v20には<贖い主として来る。・・・そむきの罪を悔い改める者のところに来る。>と約束されています。悔い改めとは、神様を迎える唯一の方法なのです。

《すぐ近くにいるのに》  

2003-09-21

 

兄弟たちもイエスを信じていなかったのである。(ヨハネ7:5)

 

6章と7章の間には、かなりの時間的隔たりがあると考えられていますが、論理的にはつながっています。私たちは、6:69のペテロとはまったく反対側にある主の兄弟たちの姿を見るのです。◇ペテロは信じたので知ることが出来ました。しかし主の兄弟たちは、信じなかったので、救い主の最も近くにおりながら知ることが出来なかったのです。主イエスが宣教を開始したのが30才の頃と考えると、少なくともそれまでは、兄弟たちは主と一つ屋根の下で暮らし、寝食をともにする生活をしていたのです。近くということで考えれば、これほど近いことはありません。しかし彼らは<イエスを信じていなかったので>、イエスがキリストであることにまったく気がつかなかったのです。◇こういう彼らが、その発想において世的になっていくのは当然です。彼らは主イエスに<自分を世に現わしなさい。>とアドバイスしています。この勧めの言葉でも分かるように、彼らも主イエスのなしたわざを見ていますし、主が事を行うことを知っているのです。しかし、驚くような主の奇跡を見ても、イエスが救い主であることは分からないのです。イエスを信じていなかったからです。信仰の無い者には、イエスはただの人でしかありません。◇私たちはもう一度、「信仰が事実を確認する」という真理を学ばなければなりません(ヘブル11:1)。信仰が無ければ、救い主が自分の人生の真っ只中に臨んでいても分からないのです。聖書はこういう盲目な姿を罪と表現してるのです。言葉を換えて言うならば、起こっている現象は知っていても、そこに絶対者であられる神様がどのように臨み、何をなしておられるかは分かってこないのです。

《弟子としてとどまる》

2003-09-14

そこで、イエスは十二弟に子言われた。「まさか、あなたがたも離れたいと思うのではないでしょう。」 (ヨハネ6:67)

 

主イエスのみことばにつまずいて<弟子たちのうちの多くの者>が去っていった後で、主は残された弟子たちに、もう一度信仰の確認をしておられます。◇これは長い信仰生涯の中で、特に信仰を持った初期の頃には必ずなされる主のみこころなのです。主は肉のパンだけでついて来る偽りの弟子ではなく、霊のパンによって生きていく本物の弟子を求めておられるからです。そういう意味で、前回もお話しましたように、信仰のつまずきを覚えたときは、実は信仰がより確かなものとされていくときでもあるのです。去る者は去る。残る者は残る。これが摂理なのでしょう。◇あらためて主に念を押された弟子たちは、ここでもう一度信仰告白をすることになります。ペテロの答えに注目しましょう(68,69)。<私たちは、あなたが神の聖者であることを信じ、また知っています。> ここでペテロが、単に信じるだけでなく、知っている(完了形)と告白していることに注意しなければなりません。確かに、信じることと知っていることとは違います。しかし、切っても切れない深い関係があることも事実です。◇ここでの<知っている>とは何を意味しているのでしょう。覚えなければならないことは、ペテロだけが特別な神秘的体験をしているのではないと言うことです。去っていった弟子たちも、同じ「パンの奇跡」(1~14)に預かっているのです。同じように主のみわざを見、同じようにその恵みに預かっているのです。にもかかわらず、彼らは主イエスを<神の聖者>と信じることをしません。私たちはここに、去る者の不信仰と残る者の信仰とを見比べることになるのです。

《弟子たちのつまずき》

2003-09-07

いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。 (ヨハネ6:63)

 

ここには「わたしの肉を食べ、わたしの血を飲む者は、永遠のいのちを持っています。」という主イエスのみことばにつまずいた弟子たちの姿が描かれています。彼らは「これはひどいことばだ。そんなことをだれが聞いておられようか。」とつぶやいたのです。◇私たちはまず、このつぶやいた人々が<弟子たちのうちの多くの者>と言われていることに驚きを覚えます。主の弟子であってもつまずくことがあるのです。v66には<こういうわけで、弟子たちのうちの多くの者が離れ去って行き、もはやイエスとともに歩かなかった。>とあります。肉のパンを与えられたときには喜んで従って来た者たちも、天からのまことのパンのことになるとつまずいてしまうのです。これは、昔も今も変わらない罪人の姿ではないでしょうか。◇しかし主イエスには、だれが本物の弟子か、だれが偽りの弟子か、初めから分かっていました。<あなたがたのうちには信じない者がいます。」>と明らかにしておられます。勿論、主がこのようにあからさまに真偽を指摘されたのは、信じない者が信じる者になるためです。信仰とは決して宿命的なものではありません。偽りの自分が本物の自分になることなのです。主は常にその機会を与え、信仰へと促しておられるのです。◇主は言われます。<いのちを与えるのは御霊です。肉は何の益ももたらしません。> 肉は肉のパンを求めます。しかし、霊は霊のパンを求めているのです。肉のパンでたましいを満たそうとしているところに私たちの愚かさがあるのです。私たちは真の自分に気付かねばなりません。本物の主の弟子は、霊のパンである主イエス・キリストとそのみことばによって生きるのです。


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