浦和聖書バプテスト教会

10月, 2003年

《人を正しく理解する》

2003-10-26

うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」(ヨハネ7:24)

 

人は、他の人を自分の目でしか見ることが出来ません。実はこれが、人間関係をむずかしくしているもっとも大きな要因なのです。◇まず最初に、この個所で議論されている事柄の背景になっている「安息日の戒め」について触れておきましょう(出エジプト記20:8)。言うまでもなく、この戒めの本来の趣旨は、主なる神様を礼拝することにあります。そのために神様は、安息日に仕事をしてはならないと付け加えておられるのです。ところが当時のユダヤ人たちは、これを表面的にしか捉えないで、主イエスが安息日にひとりの人をいやしたことを非難しているのです。こんなバカなことはありません。主はこういう彼らに、<うわべによって人をさばかないで、正しいさばきをしなさい。」と戒められたのです。◇これは今の私たちにもそのまま当てはまるのではないでしょうか。聖書の他の個所には<人はうわべを見るが、主は心を見る。」>(サムエル記Ⅰ16:7)と言われていますが、相通じるものがあります。表面的にはみことばを守っていても、心の中では同じみことばを破っているということが起こり得るのです。当時のユダヤ人たちは、自分たちは割礼を施しているのに、主がひとりの人をいやすと非難するのです。割礼といやしと、どんな違いがあるというのでしょう。◇私たちは、心をみる目を養わなければなりません。そうでないと、決して<正しいさばき>は出来ないでしょう。どんな人でも、うわべでは分からない、とてつもなく深いものを抱えているのです。またそれと同時に、このように言い切れる主イエスにあらためてこれからの自分の人生を任せたいものです。主イエスだけが、私のすべての真実を知っていてくださるのです。 ハレルヤ。

《一番大切なこと》

2003-10-19

神を恐れよ。神の命令を守れ。これが人間にとってすべてである。(伝道者の書12:13)

 

人生において一番大切なことは何でしょうか。人にはそれぞれ色んな考え方があるでしょうが、聖書は、神を恐れ、神に従って生きることだと断言しています。◇これはよく考えてみれば当然なことと言えるでしょう。もし創造者である神がおられないのなら、人は何をしても許されるでしょうし、どんな生き方をしても大差はないでしょう。しかし、この世界の創造者がおられ、私たち一人一人にいのちを与えておられるお方がいるのなら、そのお方を無視して生きることは、人生最大の欠落と言わねばなりません。実は多くの人が、それと知らずにこの欠落人生を歩んでいるのです。◇私たちの現実に目を向けてみてください。人間の抱えているあらゆる問題、あらゆる不幸の根本的原因が、この欠落にあるのです。神を恐れずに自分の欲望のままに突っ走っているところから、様々な不正や悪行が生じています。人は意識の中に神を恐れることを失ったとき、善も聖も愛も失ってしまったのです。自分の人生の規準を自分で決めることが出来るのなら、なんでも規準に成し得ます。場合によっては、人殺しさえ善とすることが出来るのです。◇私たちは今、早急に神に立ち返る必要があります。神を恐れ、神のみこころに従って生きる必要があるのです。そうでないと、個々の問題は解決できたように見えても、人生全体では何も変わらないのです。これは最も根源的な課題です。どんな立派な材料を用いても、土台が廃れていたら、家は崩れていくのです。屋根を修理し、壁を新しくし、部屋をリホームしても、土台には何の手もつけられていない。これが現在の私たちの人生ではないでしょうか。

《主イエスの教え》

2003-10-12

「わたしの教えは、わたしのものではなく、わたしを遣わした方のものです。 (ヨハネ7:16)

 

ここで主イエスは、主イエスの教えに驚きを覚えたユダヤ人に、その教えがどんなものかを明らかにしておられます。◇まず第一に、主イエスの教えは、ご自分から出たものではなく、主イエスをこの地上に遣わされた方、即ち天の父なる神の教えであるということです(16)。これは主イエスの生涯を通して言えることで、主はご自分の哲学や宗教を教えられたことは一度もありません。常に父と一つであられた主は、当然その教えにおいても一つであられたのです。ユダヤ人がその教えに驚いたのは、それが単に他のラビ(教師)のような学問的なものではなく、神の権威と知恵に満ちていたからでしょう。◇第二に、主イエスの教えは<だれでも神のみこころを行なおうと願うなら>、その教えが父なる神から出たものであることがわかるところに特徴があります(17)。即ち、主イエスの教えを信じて従ってみると、それが神から出ていることがわかるというのです。これはみことばの持っている非常に不思議な特徴です。みことばは、信じて従う者には神の力であり、信じない者にはただのことばで終わるのです。

◇第三に、主イエスの教えは、徹頭徹尾、父の栄光を求めるものであるということです(18)。この点は、当時のパリサイ人とはまったく違う点です。彼らは、神の戒めを自分の栄誉のために用いました。「私は神の戒めを守っている。だから私は正しい。」という風に。考えてみれば、己の義を証明するために神のみことばを用いることほど恐ろしいことはありません。主イエスの教えには、こういったことは一切ありません。すべての教えが神の栄光を目指しているのです。ですからそれに従うと、私たちも神の栄光を現わすことになるのです。ハレルヤ。

《世に憎まれるイエス》

2003-10-05

世はあなたがたを憎むことはできません。しかし、わたしを憎んでいます。わたしが、世について、その行ないが悪いことをあかしするからです。(ヨハネ7:7)

 

肉親の兄弟たちにお答えになられたこの主イエスのみことばには、何故主イエスが世に受け入れられないのか、その理由が明らかにされています。◇それは<世について、その行ないが悪いことをあかしする>からです。即ち主は、世の様々な罪を指摘し、糾弾し、悔い改めを迫ったからです。そう言えば、主イエスの宣教開始のみことばも「悔い改めなさい。 天の御国が近づいたから。」(Mt4:17)でした。人は罪の問題をあやふやにしたままで救われることは決して出来ないのです。世はいつも罪を隠し、ごまかして済まそうとします。しかしそれは、天の御国に背を向けた歩みなのです。主は、その隠された罪をえぐり出し、悔い改めを迫るのです。◇これは決して心地よいことではありません。私たちは、自分の罪が指摘された時の苦しみを知っています。その苦しみはすぐに、憤りや憎しみに変わります。罪が指摘された時、それを素直に受け止められるほど私たちは謙遜ではないのです。当時の指導者たちが、何故主イエスを憎み、殺そうとしたか、ここに本当の理由を見るのです。もし主イエスが彼らの罪に触れなかったなら、彼らは主を歓迎したでしょう。◇しかし天の御国を目指す者は、罪をあやふやにすることは出来ません。御霊なる主はそれを許さないのです。これまでの信仰生活の中で、主が憎らしくなるほど罪が指摘されたことはないでしょうか。もしそういう経験がないなら不幸なことです。世は主を憎み十字架につけます。しかし私たちは、その十字架の前で罪を悔い改め、天に向かって行くのです。ハレルヤ。


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