浦和聖書バプテスト教会

11月, 2003年

《祈りは神を動かす》(4)アブラハムの祈り

2003-11-30

主はこう考えられた。「わたしがしようとしていることを、アブラハムに隠しておくべきだろうか。 (創世記18:17)

 

主は、あまりにひどい罪のゆえに、ソドムの町を滅ぼそうとされました。しかし、そこには甥のロトの家族が住んでいたのです。◇もしアブラハムがこの主の計画を知らないでいたら、ロトの家族はソドムの町とともに滅んでいったことでしょう。しかし主は、アブラハムに隠したままでこの計画を実行しようとはしませんでした。私たちはここに、祈りの重荷は主から与えられるものであることを確認しておかねばなりません。祈るべきことが何もないと言う人がいたら、それは決して恵まれた状態にあるのではなく、主から遠い距離にあることを物語っているのです。◇<アブラハムはまだ、主の前に立っていた。>(22)とあります。アブラハムの執拗なとりなしの祈りが始まるのです。二つの点に注目したいと思います。ひとつは、50人から始まって10人に至るまで、祈りが段階を踏んでいることです。現代の合理主義者は「初めから10人で祈ればよいではないか。」と主張するでしょう。そこに、祈りを失う原因があるのです。もうひとつの点は、50人から40人までは5人づつ減っていくのに、40人から10人までは10人づつ減っていくという点です。祈りが聞かれると言うことが分かってくると、祈りは加速していくのです。祈りとは、このように、段階を踏んで加速していくものなのです。◇アブラハムは、「ロトの家族は助かる。」という確信と平安を得て帰途に就きます(33)。祈りが終了したのです。私たちは、ここまで主と語り合うことなく、何と途中で祈りを投げ出してしまっていることでしょうか。心に不安や恐れを残すうちは、まだ祈りが終わってないと考えてよいでしょう。

《人は神のしもべ》

2003-11-23

わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。 (イザヤ44:22)

 

いつの世でも、人間は自分をこの世界の最高権力者のように考えてきました。しかし、神のことばである聖書は、私たち人間が神のしもべであることを明確に伝えています。◇まず第一に、人は神様によって造られたものです。<わたしが、あなたを造り上げた。>と主は言われます。人間はこれをまったく逆に考え、人が多くの神々を造り上げてきた(v9~20)と思っているのです。これは何と立場をわきまえない傲慢な姿でしょうか。この世界に存在する様々なものに目を留めてみてください。人間が造り出したものがはたしてあるでしょうか。人はせいぜい、すでに在るものを利用して他のものを作ることしか出来ないのです。◇次に覚えたいことは、人間は常に神様に覚えられている存在だということです。<あなたはわたしに忘れられることがない。>と主は言われます。私たちは決して見捨てられてはいないのです。あまりにも暗く、あまりにも悲惨な現実を見ていると、どこに神の御手があるのかと疑いたくなります。多くの人が、今の時代を「神不在の時代」と表現していることに異議を唱えることは出来ません。しかしそれでも、私たちは神様に見捨てられてはいないのです。◇その最も顕著なしるしは、今日でも神様の救いのみわざが鮮やかに行われていることです。<わたしは、あなたのそむきの罪を雲のように、あなたの罪をかすみのようにぬぐい去った。>と主は言われます。言うまでもなく、この預言のことばが主イエス・キリストのよって実現しているのです。罪の赦しこそ、神様の臨在を示す最も大きなしるしです。今こそ私たちは<わたしに帰れ。わたしは、あなたを贖ったからだ。>と呼びかける主の御声に耳を傾けなければなりません。

《祈りは神を動かす》(3)ヒゼキヤの祈り

2003-11-16

わたしはあなたの祈りを聞いた。あなたの涙も見た。 見よ。わたしはあなたの寿命にもう15年を加えよう。(イザヤ38:5)

 

ヒゼキヤ王は重い病にかかっていました。そこに、預言者イザヤを通して、主からの死の宣告が届くのです。「あなたの家を整理せよ。あなたは死ぬ。直らない。」◇この宣告は、どんなにか彼を絶望のどん底に突き落としたことでしょうか。しかし、ここから、まさにここから、彼の真剣な祈りが始まるのです。彼は顔を壁に向けて、大声で泣き叫びながら主に祈ったのです(2,3)。一国の王が、大声で泣き叫んで祈っている姿を想像してみてください。死の前においては、地位や名誉やプライドと言ったものは何の意味もなくなるのです。さらに彼の祈りには一つの特徴があります。それは、彼が「主よ。助けてください。」とことばに発せず、自分がこれまで忠実に主に仕えてきたことを訴えています。こんな場合にこんな祈りが出来るとは、何とすばらしいことでしょうか。悔いや罪の悔い改めのことばしか出てこないのではないでしょうか。◇主は直ちに彼の祈りを聞いてくださいました。祈りは届き、涙は顧みられたのです。主は彼の寿命にもう15年を加えてくださいました。祈りは神を動かします。主は一旦「死の宣告」を下されたのに、彼の祈りに答えて、計画を変更してくださったのです。ひとりの人の寿命を15年延ばしたとしても、主の全体的・基本的な計画には何の支障もないからです。このように「祈るが勝ち」なのです。◇後に病から回復されたヒゼキヤは<ああ、私の苦しんだ苦しみは平安のためでした。>(17)としみじみ述懐しています。これは、祈りをもって自分の運命に勝利した人だけが楽しむ境地ではないでしょうか。

《祈りは神を動かす》(2)マリヤの祈り

2003-11-09

母は手伝いの人たちに言った。「あの方が言われることを、何でもしてあげてください。」(ヨハネ2:5)

 

有名な「カナの婚礼」でのお話です。ここでは、主イエスの<最初のしるし> 水をぶどう酒に変えるという奇蹟が行われています。◇実は、主イエスはまだこのようなしるしを行う予定ではありませんでした。主ははっきりと<わたしの時はまだ来ていません。」>と言われています。しかし主は、予定を変更して、ぶどう酒が足りなくなった窮地を救われたのです。私たちは、この主イエスの最初のしるしが、マリヤの祈りと深い関係があることを見逃してはなりません。ここにはマリヤの祈っている姿はみられませんが、神を動かす典型的な祈りが彼女の行動となって現れているのです。◇まずマリヤは、ぶどう酒がなくなったとき、その必要を主イエスのところに持っていきました。そして、ありのままの窮地を「ぶどう酒がありません。」と伝えたのです。マリヤがそれ以上何も付け加えていないことに注意しなければなりません。祈りとは、自分の必要をありのままに主に伝えることです。そしてそれ以上は何も付け加えないことです。どのように答えるかは、神の領域に属することだからです。◇次にもっと大切なことは、この問題をマリヤが全面的に主に委ねたことです(5)。マリヤが、ぶどう酒を手に入れるために他の方法を一切用いていないことに注意しなければなりません。変な言い方になりますが、委ねるとは、何もしないことであり、また何でもすることなのです。主にお願いしたのに自分の手段で動いてしまったり、反対に主が「水を汲みなさい。」と言われているのに従わなかったりしてるのが私たちではないでしょうか。

《祈りは神を動かす》(1)基本的なこと

2003-11-02

いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された。 (ルカ18:1)

 

この危険極まりないテーマには、同時に、クリスチャンに与えられている計り知れない特権も示されています。◇まずこの「不正な裁判官」のたとえが、<いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために>語られていることに注意しなければなりません。ねばり強く祈り求めていくと、祈りは聞かれるのです。勿論たとえですからすべての点で神様との関係に当てはめることは出来ませんが、神様がみこころを変更して、私たちの祈りに答えてくださることは大いにあり得ることなのです。ですから最初に覚えておきたい原則は、神様は、全体的・基本的なみこころを変えることはありませんが、部分的・個別的な事柄においてはいつでも融通をつけてくださるのです。◇「祈りの精神」で有名なフォーサイスは、このことを、神は意志を変えることはなさらないが、意向は変えてくださると言っています(p57)。即ち、神様のみこころには不変的なものと可変的なものがあり、私たちがこの地上で願う祈りは、ほとんどが可変的なものに含まれるということでしょうか。但し注意しなければならないことは、この不変・可変の区別はまったく神の領域に属することであって、私たち地上の人間は絶対にこの区別をしてはなりません。私たちには、どんなことでも、祈り求める特権が与えられているだけです。◇このことは少し想像を働かせれば分かることです。私の一つの願いを叶えたぐらいで、神様が全体の計画を変更しなければならないようなことになるでしょうか。ですから私たちは祈り求めるべきです。祈り求める者が恵みを勝ち取っていくのです。アーメン。


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