浦和聖書バプテスト教会

12月, 2003年

《黙して神を待つ》

2003-12-28

私のたましいは黙って、ただ神を待ち望む。私の救いは神から来る。(詩篇62:1)

 

この時ダビデは敵の激しい攻撃を受け、<あたかも傾いた城壁かぐらつく石垣のように>危険な状況に追い詰められていました(3)。 王としての油注ぎを受けたものの、その<高い地位>は現実にはまだ何の支えにもならなかったのです(4)。◇こういう状況の中で、彼はまず、人を頼りにすることがどんなにむなしいことであるかを知るのです(9)。どちらかと言うと、ダビデの周辺には<身分の低い人々>が集まって来ますが、彼らは実際には何の助けにもならない人たちでした。かと言って、身分の<高い人々>はというと、彼らはいつ裏切るとも分からない人々でした。人に頼ることは<息より軽い>ことだと知らざるを得なかったのです。◇こういう状況だからこそ、ダビデの信頼の心は、全能なる主に向かうのです(1,5)。<黙って>ということばが私たちの注意を引きます。周囲の人のだれをも信頼できなくなった時、人は黙する以外にありません。私たちが大騒ぎするのは、誰かが分かってくれたり、同情してくれるからです。しかし、それがまったく<むなしい>と知ると、黙って神に向かうのです。こういう意味での沈黙ほど深い祈りはありません。それは、深い孤独をも意味しているのです。また、荒れ狂う嵐の中での静寂です。ダビデは、そのすさまじい人生の中で幾度となく、この祈りによって主の救いを知っていくのです。◇<民よ。どんなときにも、神に信頼せよ。あなたがたの心を神の御前に注ぎ出せ。神は、われらの避け所である。>(8)。このようにダビデは呼びかけ、勧めています。私たちも、黙して神を待ち望む信仰を学んでいかねばなりません。本気で主に向かうたましいは、黙さざるを得ないのです。

(3)《確かめられたしるし》

2003-12-21

あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます。これが、あなたがたのためのしるしです。」 (ルカ2:12)

 

生まれてきた赤ちゃんが救い主であるという証拠(しるし)をどこに見たらよいのでしょう。御使いが羊飼いたちに伝えたこのことばによれば、それは<布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご>であるということです。◇これはまず見違えることはありません。この夜ベツレヘムの町で何人の赤ちゃんが生まれたかは分かりませんが、馬小屋で生まれ、布にくるまって飼葉おけに寝かせられているみどりごは、たったひとりしかいません。神様がお示しになる救い主のしるしは、このように、人間の一般的な想像をまったく裏切るものなのです。そこには、富や権力の影すら見出すことは出来ません。ただ、何もないことの平和が満ち溢れているだけです。◇羊飼いたちはこの知らせを受けたとき、野原にそのまま留まってはいませんでした。「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう。」(15)と、実際に出かけていったのです。<そして急いで行って、マリヤとヨセフと、飼葉おけに寝ておられるみどりごを捜し当てた。>のです。示されたしるしは、みずからの行為によって確かめられました。ここに私たちは、信仰の原型を見なければなりません。◇どんなにすばらしい喜びの知らせも(10)、ただ聞くだけで終わったら、それは何の意味ももたらしません。自分の足で出かけていって確かめられねばならないのです。喜びの知らせは、確かめられることによって喜びとなるからです。自分で救い主とお会いすることです。信仰とは、すでに伝えられたことを、みずからの人生で確かめることなのです。アーメン。

(2)《この貧しき者たちのために》

2003-12-14

「恐れることはありません。今、私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。(ルカ2:10)

 

救い主がお生まれになったと言う知らせは、まず真っ先に、野原にいた貧しい羊飼いたちに伝えられました。◇私たちは、ユダヤの地方には他にも信仰深い人がいたであろうに、なぜ彼らが選ばれたのか、考えてみる必要があります。これは決して偶然などと言うことばで片付けられないことを意味しているからです。即ち神様は、適当に誰でもよいからこの知らせを伝えようとされたのではないのです。第一番目は彼らでなければならなかったのです。なぜなら、彼らが一番貧しい者たちだったからです。◇神様の順番と言うことを覚えさせられます。もし、たとえ信仰深い者であっても、身分の高い人やお金持ちの人にこの知らせが伝えられたとしたら、はたして彼らは主イエスの生まれた馬小屋を訪ねたでしょうか。恐らく、その身分や富が妨げとなって、せっかくの喜びの知らせも確かめられることさえなく終わったでしょう。救い主は家畜小屋に生まれたのです。家畜小屋を訪ねるのに最もふさわしい人たち、それが信仰深い羊飼いたちだったのです。◇クリスマスの祝福は、この低さ、この貧しさから始まっていることを決して忘れてはなりません。救い主イエスは、すべてを捨てて、この地上の誰よりも貧しくなられたのです(ピリピ2:6~8)。クリスマスの祝福を妨げているのは、かえって私たちの富やプライドなのです。「この私が馬小屋なんかにいけるか。」この思いがかなぐり捨てられない限り、救い主は私から遠く離れているのです。主はとことん貧しくなられました。私たちもとことん貧しくなる必要があるのです。<心の貧しい者は幸いです。天の御国はその人のものだからです。>(マタイ5:3)

(1)《隠されていた神の働き》

2003-12-07

ヨセフもガリラヤの町ナザレから、ユダヤのベツレヘムというダビデの町へ上って行った。(ルカ2:4)

 

救い主が何処で生まれようと、救い主には変わりはない。

これは人間の考えです。◇神様の計画はまったく違っていました。<ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである。>(ミカ書5:2)。これは主イエスが生まれる700年も前の預言者ミカのことばですが、この預言のとおり、救い主イエスは、ユダヤのベツレヘムで生まれねばならなかったのです。◇身重で臨月を迎えているマリヤでしたから、常識的に旅をすることは危険の伴うことです。許されるなら、マリヤとヨセフはナザレを動きたくなかったにちがいありません。しかし、ローマ皇帝アウグストの勅令とあって、彼らは仕方なくベツレヘムにやってきたのです。途中で何度も休憩を取りながらの大変な旅だったにちがいありません。彼らがベツレヘムに着いた時には、すでに夜も更けて、宿屋は満員で<宿屋には彼らのいる場所がなかった>のです。しかしその夜、救い主イエスは馬小屋に産声を上げられたのです。◇見逃してはならないひとつの点が見えてきます。彼らは皇帝アウグストによって動かされていたのではなく、全能者であられる神に動かされていたのです。ベツレヘムに来なければならないことも、馬小屋に追いやられたことも、すべて全能者が仕組まれたことだったのです。このようにして預言は成就し、救い主は救い主にふさわしく誕生したのです。強いられて仕方なく・・・しかし、そこには神の隠された計画が着々と進められていたのです。ハレルヤ。


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