浦和聖書バプテスト教会

1月, 2004年

《この赦しのゆえに》

2004-01-25

そのとき、イエスはこう言われた。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」 (ルカ23:34)

 

私たちは今朝、大変重いみことばの前に立っています。と言うのは、これは、主イエスが十字架の死の苦しみの中で、あえぐようにして祈られた「とりなしの祈り」のことばだからです。◇まず、十字架を取り巻く人々の姿に目を留めておかねばなりません。<何をしているのか自分でわからない>と主は言われました。ここには、指導者、兵士、民衆が登場してきますが、彼らは一様に、主イエス・キリストを殺すことを楽しんでいるのです。主イエスの着ていた着物を分け合ったり、主をからかったり、あざ笑ったりして。私たちはここに、人間の恐ろしい罪の姿を見ないわけにはいきません。◇天の父が、私たちの救いのために送ってくださった御子を、自分でわからないで殺してしまったのです。後に弟子のペテロは次のように語っています。<ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです。」>(使徒2:36)。これは、ここに出てくる人々だけでなく、罪の世の普遍的な姿ではないでしょうか。◇しかし、覚えなければならないことは、まさにこういう人々を赦すために主イエスは十字架にかかられたのです。<父よ。彼らをお赦しください。>との祈りは、十字架そのものを指しているのです。私たちは、決して、このことが見えない者であってはなりません。主イエスの十字架は、哲学や思想をはるかに超えた、生きた神の愛の現われなのです。私たちは、この赦しのゆえに、生かされているのです。ハレルヤ。

《耕すことの大切さ》

2004-01-18

別の種は良い地に落ちて、あるものは百倍、あるものは六十倍、あるものは三十倍の実を結んだ。 (マタイ13:8)

 

主イエスのお話くださった有名な「種蒔きのたとえ」です。ここには、種の落ちる四種類の地面が示されていますが、実を結ぶことが出来るのは<良い地>に蒔かれた種だけです。

◇種蒔きの働きを考えるとき、このお話は、実に示唆に富んでいます。どんなに一生懸命に種を蒔いても、地面が整えられていなければ、種は最終的には無駄になってしまうのです。これは日本の伝道を考えるなら、決して無視できない点です。即ち、種を蒔く前に、まず土を耕さねばならないのです。<良い地>作る必要があるということです。そうでないと、初めから種を受けつけなかったり、一度は種を受け入れてもすぐ枯れてしまったり、しばらくは成長して行っても最終的には実を結べなかったり、となってしまうのです。◇日本の教会は、種蒔きだけでなく、良い地を耕すことはもっと怠ってきました。と言うより、出来なかったと言うべきでしょうか。先週私たちは、<なまけ者は冬には耕さない。それゆえ、刈り入れ時に求めても、何もない。>(箴言20:4)というみことばから学びましたが、冬だからこそ耕さねばならないと言えるのではないでしょうか。手っ取り早い成果が出ないという理由でこの働きを怠っていたら、日本の将来の刈り入れはますます乏しくなってしまうことでしょう。◇しかし、耕すことは、正直なところ、とてつもなく困難でむずかしい仕事です。というのは、耕すことは、世界観、人生観、価値観に関わることだからです。私たちは、出来るところから始めねばなりません。まず身近な隣人から始めましょう。そのためには、まず自分自身が、福音に根ざした生き方を徹底する必要があるのです。

《働きを持続する》

2004-01-11

朝のうちにあなたの種を蒔け。夕方も手を放してはいけない。あなたは、あれか、これか、どこで成功するのか、知らないからだ。 (伝道者の書11:6)

 

主は私たちクリスチャンに、種蒔きの働きを命じておられます。しかも、きょうのみことばでは、その働きを持続することが大切なのです。◇まず、当たり前のことですが、種蒔きがあって初めて刈り取りがあることを覚えねばなりません。これは日本の教会が反省しなければならない重要な点です。日本の教会は刈り取りばかりを目指していて、耕すことや種を蒔くことを長いこと怠ってきたのです。現在、あまりにも刈り取りが少ないのは、この怠慢の結果ともいえるのです。そして、さらに悲しい現実は、それにもかかわらず、相変わらず手っ取り早い刈り入ればかりに精を出しているのです。◇改めて、なぜ種蒔きを怠ってしまうのか、考えねばなりません。ここには、そのひとつの理由が明らかにされています(6)。風を警戒するのあまり、種蒔きを止めてしまったのです。私たちは、そこにはある種の正当な理由があることに同意しないわけではありません。風に飛ばされてしまえば、確かに種は無駄になってしまいます。同じようなみことばが箴言20:4にも示されています。しかし聖書は、それを<なまけ者>と言っているのです。◇人間の合理的判断によれば無駄になってしまう。その理由で種蒔きをしないなら、私たちはいつ種蒔きをしたらよいのでしょう。相変わらず冬は続き、風も強いのです。末の世に向かって、種蒔きにふさわしい時がはたして来るのでしょうか。私たちは、いつ来るかも分からない時を待っていてはならないのです。朝も夕も、手を放してはなりません。あれか、これか、どこで主が成功させてくださるか分からないのです。

《主がともにおられるのだから》

2004-01-04

恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。(イザヤ41:10)

 

新しい年が明けました。どんな思いでこの年を迎えておられるでしょうか。◇この年がどんな年になるか。これは正直なところ誰にも予測できません。しかし、ひとつの確かなことは指摘しなければなりません。それは、この時代の大きなうねりの中で、私たちクリスチャンはあまりに弱いという現実です。<恐れるな。虫けらのヤコブ。>(14)という主の呼びかけがなされています。私たちも、罪が熟したこの時代に対して、あまりにも脆弱なのです。虫けらのような存在にすぎないのです。私たちはまず、自分の真実な姿をありのままに認める勇気が必要でしょう。自分をごまかして強がることほど危険なことはないのです。◇もとより主は、私たちの真実をすべてご存知であられます。その上で<恐れるな。><たじろぐな。わたしがあなたとともにいるのだから。>と励ましてくださっているのです。クリスチャンの強さがこの一点にあることを決して見まちがえてはいけません。パウロという人は、このことを<私が弱いときにこそ、私は強い>という逆説的な言い方をしています(コリントⅡ12:5~10)。主がともにおられて、私たちを<強め><助け><守って>くださるのです。まさに信仰の問題です。◇私たちは、このような主を信頼して歩んで行くのです。それ以外にはありません。もし私たちが主に寄せるこの信頼を欠くならば、私たちはたちまち自らのうちに閉じこもり、世を恐れて隠れるような生き方をしなければならないでしょう。ちょうど主イエスを見失った弟子たちのように(ヨハネ20:19)。それはすでに、戦う前から敗北している姿なのです。


最近のメッセージ

年月別メッセージ

アクセスカウンター

  • 今日:242   昨日:160
  • Total:174137   Online User: 1