浦和聖書バプテスト教会

2月, 2004年

《 ご自身を隠す神 》

2004-02-29

イスラエルの神、救い主よ。まことに、あなたはご自身を隠す神。

(イザヤ45:15)

 

長いこと捕囚の身であったイスラエルは、ペルシャのクロスという王によって解放されることになります。BC538年頃のことです。◇前回見ましたように、世俗の歴史では、これはクロス個人のなした偉業とされていますが、聖書は、これはすべて主なる神様のなされるみわざだと、はじめから伝えているのです。<あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。>(5b) これを見ると、クロス本人でさえ、自分が神様に用いられているとは気づきもしなかったのです。まさに、イスラエルの神、救い主は<ご自身を隠す神>であられます。私たちは決して、目に見える事柄だけで、神はいないなどと判断しないようにしなければなりません。◇「神はいない」どころか、各所で「わたしが神である。ほかにはいない。」と宣言されているのです(5,6,18,21、22)。ご自身を隠す神が、このように何度も何度も同じことを宣言してることに注意しなければなりません。これは、私たち人間が、いかに神様を見失いやすいかを物語っているのではないでしょうか。聖書は次のように語ります。<私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。>(コリントⅡ4:18) ◇私たちクリスチャンは、人の目には見えない神様を、常に見続ける者であります。見えるものだけですべてを判断してしまうこの時代の風潮に、決して惑わされてはなりません。確かに、クロスはクロスです。しかし、彼のすべてが、ご自身を隠す神のみ手によってなされているのです。アーメン。

《人生の危機に知る》

2004-02-22

すると、激しい突風が起こり、舟は波をかぶって水でいっぱいになった。  (マルコ4:37)

 

穏やかで平安な人生を歩みたい。これは万人の願いですが、現実はなかなかそのようには行きません。人生には、予想だにしなかった<激しい突風>が吹き付けてくることがあるのです。◇ここでの弟子たちがそうでした。夕方のガリラヤ湖は、舟出のときは実に静かでした。「さあ、向こう岸に渡ろう。」という主のみことばに、彼らは何の疑問も抱かずに従ったのです。穏やかなときは、穏やかに主のみことばに従えるものです。ところが、湖の途中で<激しい突風>が吹きつけてくるのですから、人生は分かりません。舟は波をかぶって沈みそうになってしまったのです。恐らく誰もが、一度や二度、こんな経験をするのではないでしょうか。◇しかし、こんな時、このような危機的な状況の中でも、ひとりだけ悠然と眠っておられるお方がいることに気づかねばなりません(38a)。私たちの主イエスです。あまりの悠々たる姿に、弟子たちが腹を立てるくらいです(38b)。主はなぜにこのように悠々としていられるのでしょうか。それは、その後の主のみわざで分かります(39)。私たち人間は、時として自然の脅威に弄ばれることが多いのですが、主イエスは完全に自然も偶然も支配しておられるのです。◇私たちは、幸いなことに、このような主イエスとともに歩むことができるのです。激しい突風を自分の力で乗り切ろうとするから沈没してしまうのです。大切なことは、突風を突風と認めて、主イエスにより頼むことです。風がやんだ後で主は言われました。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです。」(40) どうにもならない危機だからこそ、主イエスの救いを知るのです。アーメン。

《 歴史を司る主 》   

2004-02-15

わたしが主である。ほかにはいない。・・・  あなたはわたしを知らないが、わたしはあなたに力を帯びさせる。(イザヤ45:5)

 

ペルシャの王クロス(1)は、バビロン帝国を滅ぼし、イスラエルの民を捕囚から解放した偉大な王です。◇世俗の歴史では(例えば学校の教科書)、この偉業はクロス個人が為したこと見なされていますが、きょうの聖書個所を読みますと、これはすべて、背後にあって全能なる主が為したことであると示されています。クロスは、少なくとも初めの頃は、決して神様を信じていた者ではありません。みことばは<あなたはわたしを知らないが>と明らかにしています。しかし主なる神は、彼に<力を帯びさせ>、諸国を平定させ、イスラエルを解放させてくださったのです。◇このことから私たちは先ず第一に、歴史を動かし、新しい歴史を造るのは、絶対主権者であられる主であることを知らねばなりません。クロス本人でさえ知らなかったように、世俗の歴史は決してこれを認めません。人の歴史は人が作ったとしか見ていないのです。神の存在を否定しているのですから当然です。しかし二度も<あなたはわたしを知らないが>と言われている通り、背後にあってすべてを主が支配し、動かしておられるのです。◇第二に覚えたいことは、神様を信じていない者も、神様に大きく用いられることがあるということです。みことばが、わざわざ<油そそがれた者クロス>と言ってることに注意しなければなりません。神様を知らないクロスが、イスラエルの救い主(政治的な意味で)と言われているのです。◇ですから第三に大切なことは、神様の歴史における働きを、決して狭い範囲に限定してはならないということです。私たちの周囲にも、たくさんのクロスを主は送ってくださっているのではないでしょうか。

《世の終わりに備える》

2004-02-08

人々が「平和だ。安全だ。」と言っているそのようなときに、突如として滅びが彼らに襲いかかります。 (Ⅰテサロニケ5:3)

 

最近の一連の国際情勢を、皆様はどうお考えになられるでしょうか。イラクへの自衛隊派遣問題等、日本人がこれまでタブーとしてきたことが平気で破られるところまで変化してきました。戦争に日本人を遣わすのは反対だとする世論の意見がありますが、そうしたなかでも派遣がなされていく背景に、世の終わりが間違いなく近いこととして覚えていかなければなりません。◇黙示録など終末に関する記事と、今の社会情勢と比較してみますと、いよいよ終わりの時に突入していることを示しているのです。世界で起こっていることが、身近でないこともあり、世の終わりに気がつかない、あるいは現実離れしているように感じられるのですが、聖書の記事は明らかに一つ一つの聖句をもって、そのことを示しているのです。◇いずれまもなく、滅びと祝福が否応無く人類に及ぶことでしょう。ある者は死に渡され、ある者は神の永遠の祝福を受けるというように、主イエスの救いと神の裁きが、具体的に現実化する時代が近いことを聖書は伝えます。◇では、こうした終末にあたってキリストの救いを受けた私たちは、どう生きたらよいのでしょうか。世の終わりのしるしが具体化してきている以上、私たちの救いも具体化していく時がきているのではないでしょうか。この危急の時代にあって、私たちを取り巻く世界の情勢に敏感に感じ取り、人々の救いを覚え、あらゆる手を尽くして宣べ伝えなくてはならない時代にあることを忘れてはなりません。

(文:高木)

《 自分を救えない救い主》

2004-02-01

「あれは他人を救った。もし、神のキリストで、選ばれた者なら、自分を救ってみろ。」 (ルカ23:35)

 

これは、十字架上の主イエスをあざ笑った指導者たちのことばです。彼らは、十字架上に、多くの人を救いに導きながらも、自分のことでは何も出来ない主イエスを見ていたのです。◇彼らの言わんとするところはこうです。「お前が本当に神から遣わされたキリストなら、十字架から降りて自分を救ってみろ。そうすることによって、自分がキリストであることを人々に明らかにせよ。」これは今日でも、ある一部の人が抱いている疑惑ではないでしょうか。◇確かに、捕縛されてからの主イエスは何もしません。あざけられ、ののしられ、むち打たれ、傷つけられ、挙句の果ては虫けらのように十字架にさらされていくのです。主イエスは、本当に何も出来なかったのでしょうか。私たちは、次のようなことを想像してみる必要があるでしょう。もし、主イエスが奇蹟を起こして十字架から降りたなら・・・。恐らく人々は驚きをもって「この人こそ私たちの救い主だ。」と主イエスを迎えたことでしょう。しかしそこには、英雄は誕生しても、救い主はいないのです。◇私たちはあらためて、主イエスが何のために十字架にかかられたのかを確認しなければなりません。かつて主イエスは<わたしは良い牧者です。良い牧者は羊のためにいのちを捨てます。・・・だれも、わたしからいのちを取った者はいません。わたしが自分からいのちを捨てるのです。>(ヨハネ10)と言われました。このみことばの通り、主イエスは私たちを罪とその支配から救うために死なれたのです。私たちは、十字架の上にどんな主イエスを見るのでしょうか。虫けらのように無力なただ人でしょうか。それとも、私の救い主でしょうか。


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