浦和聖書バプテスト教会

3月, 2004年

《ここちよい人生》

2004-03-28

・・あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。(マタイ11:29)

 

私たちの人生は、過分な重荷を負えば苦しいし、かといって何の重荷もなければ空しいものです。自分に合った人生とは、いかなるものなのでしょう。◇主イエスは先ず、重荷を負って苦労している人を招いておられます(28)。これは、現代の多くの人が、自分のこととして受け留められるみことばではないでしょうか。<わたしがあなたがたを休ませてあげます。>と主は言われます。現代人は、心の底から休息を覚えられる場所を作り出せなくなっています。最も休息を得られるはずの家庭でさえ、時には戦場と化すのです。人間の抱えている罪は深刻だと言わねばなりません。心の底からの安息は十字架以外にないことを、あらためて覚えさせられます。

◇しかし、主イエスが与えてくださる安息は、決して何の重荷もないことではありません。何の荷物も載ってない荷車を、一生涯、あてどなく引き回すだけの人生は、空しくて耐えられないでしょう。主は<あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい>(29)と命じておられます。主が負わせてくださるくびきがあるのです。そのくびきは負いやすく、その荷は軽いのです(30)。<人にはおのおの、負うべき自分自身の重荷があるのです。>(ガラテヤ6:5)。◇続けて主は言われます。<そうすればたましいに安らぎが来ます。>

私たちのたましいは、主が与えてくださるくびきを負うことによって安らぎを得るのです。つまりひとりひとりに、その人にふさわしい重荷があるのです。主イエスはそれを知っておられ、重くて苦しすぎることもなく、かといって軽すぎて空しくもなく、ちょうどよい「ここちよい人生」を与えてくださるのです。

《重荷を担ってくださる神》

2004-03-21

あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。 (イザヤ46:4)

 

ここには先ず、バビロンの人々の宗教生活の様子が描かれています(1,2)。彼らの偶像は家畜に載せられて運ばれねばならず、運ぶ者も家畜も、ともに疲れてひざまづき、かがんでしまうと言うのです。彼らは人生の重荷から解放されることもできず、かえって彼ら自身もとりこになって行くのです。これは、昔も今も変わらない、人間の作り出した宗教のもたらす弊害ではないでしょうか。ひとつの宗教をやることによって、かえって人生に重荷を増し加えているのです。それどころか、大切な人生をめっちゃくちゃにしてしまっているのです。◇真の神様は、それとは全く反対です(3,4)。先ず、私たちがこの世界に誕生する前から私たちを担っておられたのです。私たちは、生まれる前から、創造主であられる神様によって運ばれている者なのです。そして、この神様の愛は、私たちが年をとってしらがになっても変わることがありません。主なる神様は<わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう。>と約束しておられるのです。私が神様を担うのではなくて、神様が私を担ってくださるのです。◇有名な主イエスのみことばを想い起こします。<すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。>(マタイ11:28) 私たちの神様は、私たちが守り、私たちが担わなければならないような神様ではありません。御子イエス・キリストをこの世に遣わして、私たちのすべての重荷を担ってくださるのです。私たちの最も重い罪の重荷さえ、あの十字架の上に担ってくださったのです。

《新しく生まれなければ》

2004-03-14

イエスは答えて言われた。「まことに、まことに、あなたに告げます。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできません。」 (ヨハネ3:3)

 

ニコデモに語られた主イエスのこのみことばで私たちがまず最初に確認しておかねばならないことは、生まれながらの人は、神の国を見ることができないままで生きているということです。これは決して、事実として神の国がないと言うことではありません。主イエスは他の個所で<神の国は、あなたがたのただ中にあるのです。>(ルカ17:21)と断言しておられます。ただ、それが見えないのです。すでにイザヤ45章でお話した通り、クロスは見えても、彼に力を与え、彼を用いてイスラエルに救いをもたらした神様は全く見えないのです。これが罪の中にある人の真の姿なのです。◇私たちは誰もが新しく生まれる必要を抱えています。新しく生まれなければ、一生涯、神の国を見ないままで人生を終えねばなりません。しかし、人はどのようにして新しく生まれることができるのでしょうか。主イエスは<人は、水と御霊によって生まれなければ、神の国にはいることができません。>(5)と言い換えておられます。水が何を指すかは別にして、御霊によって生まれる必要があるのです。それは、信仰によって与えられる天からの新しいいのちなのです。◇さらに、主イエスが<神の国を見る>から<神の国にはいる>と言い換えておられることにも注意しなければなりません。見るだけでなく、はいるのです。はいるとは、その中に存在し、その中で生きることを意味しています。これは何も、やがて到来する次の世のことだけではありません。御霊によって新しく生まれた者は、この地上の生涯を、神の国の中で生きることができるのです。ハレルヤ。

《主を仰ぎ見る者は》  

2004-03-07

地の果てのすべての者よ。わたしを仰ぎ見て救われよ。わたしが神である。ほかにはいない。 (イザヤ45:22)

 

<ご自身を隠す神>(15)は、クロスという人物に隠れてイスラエルの救いを成就します。しかしこれは、イスラエルに限ったことではありません。全世界の人々に、同じように救いが提供されているのです。◇まず<地の果てのすべての者よ。>と主は呼びかけておられます。これは私たち日本人には特にピタリとくるのではないでしょうか。東洋の、しかも海に浮かんだ小さな島国は、イスラエルの地から見れば、まさに<地の果て>であります。しかし、愛と公平に満ちた主は、こんな地の果てに住んでいる私たちをも、決して救いから漏れるようなことはなさらなかったのです。地の果てにすむ、小さな芥子粒のような私が救われたのは、まさに、ご自身を隠す神のこのような召きがあったればこそなのです。◇次に<わたしを仰ぎ見て救われよ。>です。クロスというイスラエルとは何の関係もない人物を用いてイスラエルに救いをもたらす主は、ある限られた方法だけで人を救うのではありません。限られた方法なら、限られた人しか救われないでしょう。そうではなく、主を仰ぎ見れば、そこにクロスという<油注がれた者>(Ⅰ)が現われてくるのです。主を仰ぎ見ることは、まさに、救いの原点です。◇私たちは、旧約聖書の有名な記事を思い起こします(民数記21:4~9)。毒蛇にかまれた者は、旗ざおの上に掲げられた青銅の蛇を<仰ぎ見る>だけで生きたのです。主イエスが、この旗ざおの上の蛇をご自分のことと示しておられるのは、私たちのよく知るところです(ヨハネ3:14)。まさに、信仰とは、十字架にかけられた主イエスを仰ぎ見ることなのです。


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