浦和聖書バプテスト教会

4月, 2004年

《主とともに祈る人生》

2004-04-25

誘惑に陥らないように、目を覚まして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです。」(マルコ14:38)

 

ここには、十字架を目前に控えた主イエスのゲッセマネでの祈る姿が描かれています。◇まず第1に着目したい点は、主イエスが深く恐れもだえ、弟子たちに「わたしは悲しみのあまり死ぬほどです。」と訴えておられることです(32~34)。私たちは、このように苦しみうめく主イエスをどのように考えたらよいのでしょう。少なくとも言えることは、主は私たちを救うために、罪を除いて、すべての点で私たちと同じにならなければならなかったということです(ヘブル2:17~18 同4:14~16)。本当に苦しんだ者が、苦しんでいる人を助けることが出来るのです。◇第2に着目したい点は、主イエスが弟子たちに、ともに祈ることを求めておられることです。<ここを離れないで、目をさましていなさい。」>とか冒頭の聖句は、このことを物語っています。私たちは、楽しいことやうれしいことなら主とともに祈れるのですが、主とともに十字架を負うための祈りには、心を向けることすらむずかしいのです。弟子たちは、祈るどころか、眠ってしまいます。すでにここで、主はまったく孤独なのです。◇しかし第3に覚えなければならないことは、このゲッセマネの苦しみの祈りによって、主が十字架に完全な勝利を得ていることです(41,42)。<時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。立ちなさい。さあ、行くのです。> これは何と力強い姿でしょうか。主はもう十字架を避けようとはしません。「さあ、行くのです。」と、みずから十字架に向かって歩み出すのです。弟子たちがみんな逃げ出してしまっても、主ひとり、十字架に向かって行くのです。ハレルヤ。

《比類なき神の救い》

2004-04-18

わたしをだれになぞらえて比べ、わたしをだれと並べて、なぞらえるのか。 イザヤ46章5節

 

ここには、バビロンの捕囚からの解放という神様の歴史的救いのみわざが預言されています。◇おもしろいのは、この46章では特に、偶像の無力さに皮肉たっぷりに言及されていることです。既に学びました1~2節でもそうですが、この5~7節ではもっと辛辣です。偶像は、金や銀を使って人間が造りだした神であって、人間が肩にかついで運んだり、立たせてあげたりしなければなりません。このような神に叫んでみても何の答えもなく、人間の罪という根本的な悩みを解決してくれる筈もないのです。み言葉は<このことを思い出し、しっかりせよ。>と戒めています。◇これに対して、母の胎内にいる時から、イスラエルを導いてこられた主なる神は<遠い大昔の事を思い出せ。わたしが神である。ほかにはいない。わたしのような神はいない。>(9節)と呼びかけておられます。遠い大昔の事、たとえば出エジプト時の紅海渡渉を思い出してもよいでしょう。あのような歴史的な救いをもってイスラエルを導いて来られたお方は、主なる神様以外にはおられないのです。◇この比類なき神様が、今度は、バビロンからの解放を知らせてくださっているのです。<わたしは、わたしの勝利を近づける。それは遠くはない。わたしの救いは遅れることがない。>(13)と。これは信じなければならないみことばではないでしょうか。今現在捕囚の身だからと言ってこのみことばを退けたら、イスラエルにどんな希望があるのでしょう。現状を認めることは大切ですが、だからと言ってとどまる必要は全くないのです。比類なきお方が、<私はシオンに救いを与え、イスラエルにわたしの光栄を与える。>と約束しておられるのですから。

《主イエスのよみがえり》

2004-04-11

しかし、今やキリストは、眠った者の初穂として死者の中からよみがえられました。 (コリントⅠ15:20)

 

主イエスのよみがえりは、聖書の中で最も信じがたい出来事です。死んで3日も経った人が、しかも封印された墓穴を破ってよみがえったというのですから、たいていの人が「そんなことはとても信じられない。」と言うでしょう。◇しかし、当時の弟子たちを見ると、ある時から突然全員がキリストのよみがえりの証人として立ち上がっていったことが分かります。しかもその人数は500人以上もいたと言われています。500人以上の人が、ある時から一斉に「イエスはよみがえった。」と言い出した事実は無視することはできないでしょう。1人や2人なら口裏を合わせて嘘をでっち上げることもできたでしょうが、数人もいれば嘘は嘘として必ず明らかになってしまうものです。◇何よりも、自分が嘘をついていると自覚しながら、その嘘のためにいのちを捨てるという愚かな人はいないでしょう。弟子たちは死の危険を十分知りつつも<神はこのイエスをよみがえらせました。私たちはみな、そのことの証人です。>(使徒2:32)と立ち上がって行ったのです。実際にこの後彼らの多くはは迫害を受けて殺されていきます。◇このような弟子たちの姿を見ていると、主イエスのよみがえりが事実であっただけでなく、弟子たちにとてつもない勇気と力を与えていることが分かります。私たちはここに、人間の合理性をはるかに超えた神様の救いのみわざが完成していることを知るのです。私たちの今の時代には、いろんな宗教があって、いろんな救いが説かれていますが、よみがえりのない宗教に決して惑わされてはなりません。よみがえりがなければ、罪と死からの救いもないからです。

《新年度に向けて》

2004-04-04

互いの重荷を負い合い、そのようにしてキリストの律法を全うしなさい。 (ガラテヤ6:2)

 

互いの重荷を負い合うということを、私たちは「私とあなた」という関係だけで捉えがちですが、ここでは明らかに、教会すなわち兄弟姉妹の交わり(コイノーニア)という観点で語られています。◇教会はキリストの身体と言われている信徒たちの共同体です(コリントⅠ12章)。そこには、各自の自由な意思に基礎付けられた多様性と同時に、身体としての統一性がなければなりません。そうでなければ、賜物としての個人主義は、たちまち独善主義に陥ってしまうでしょう。そして自由と独善主義が結びつくと、教会は神様の栄光を現わすどころか、サタンの格好な働き場と化してしまうのです。コイノーニアとは、私とあなたの先に、絶えず教会を見ていなければならないのです。◇それは言い換えれば、身体が身体として機能していくために私が在る、ということになります。私(例えば手)とあなた(足)という関係が、教会(身体)という広がりにつながっていくのです。この広がりにつながってない交わりは、真の奉仕を担うことはできません。身体とは、常に目に見える具体的・実際的な働きをなしているからです。一つの器官の働きが、身体としての統一性を持った単一の働きの中に組み込まれていくのです。◇私たちクリスチャンは、ひとりひとりがこのような責任を持った存在なのです。もし私がこの責任を果たさなければ、共同体としての教会の中に欠けを生じさせることになります。反対に、主からのこの責任を果たすことによって、私たちは様々なことを学び、信仰者として整えられていくのです。何の重荷もない安易な信仰生活は、祝福もそれだけ乏しいと言わねばなりません。御霊による奮起を期待します。


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