浦和聖書バプテスト教会

5月, 2004年

《耳を傾けさえすれば》

2004-05-30

あなたが私の命令に耳を傾けさえすれば、あなたのしあわせは川のようにあなたの正義は、波のようになるであろうに(イザヤ48:18)

 

私たちの主は、私たちの解放者であり、また人生のみちびき手でもあられます。◇イスラエルの民は長いこと異国バビロンの国の捕囚でありましたが、時が満ちて、再び自由の身へと開放されるのです。(14.15)。すでに見てきましたように、これはペルシャのクロスという王によってなされることになります。そしてさらに、開放されたイスラエルは、今度は主のみことばによってみちびかれることになります(17)。主は、<わたしは、あなたに益となることを教え、あなたの歩むべき道にあなたを導く。>と語っておられます。このように、主からの開放をいただき、主にみちびかれていくのが神の民のあるべき姿なのです。◇ところが、現実にはなかなかこのような歩みができないところにイスラエルの問題があり、また私たちの問題があるのではないでしょうか。V18. 19の<・・・すれば・・・であろうに。>という言い方に注意しなければなりません。せっかく主から開放をいただいても、その後の歩みで主のみことばに従わないのです。主のみことばに<耳を傾けさえすれば>、川のようなしあわせと海の波のような正義、真砂のごとき子孫の反映が用意されているのに、主のみことばに従わないために、それを受け損なっているのです。◇信仰生活において恵みの乏しい理由はこれしかないことを覚えねばなりません。決して主の愛が乏しいからでもなく、ましてや救われてないからでもありません。解放者であるみちびき手であられる主の命令に耳を傾けていないのです。 サムエル記Ⅰの有名な聖句を思い起こします。<見よ。聞き従うことは、いけにえに勝り、耳を傾けることは、雄羊の脂肪にまさる。>(15:22)

《なぜ信仰なのか》

2004-05-23

あなたがたは、恵みのゆえに、信仰によって救われたのです。それは、自分自身から出たことではなく、神からの賜物です。 (エペソ2:8)

 

神様は、私たちが救われるために、「信じる」という方法をお定めになりました。◇これは、人間の側からは、なかなか納得の行かないことのようです。というのは、人はたいてい何かを為すことによって救われると考えているからです。この世の中のほとんどの宗教がそうです。大きな犠牲が必要であったり、中には難行苦行を積んでようやっと救われる宗教もあります。人はどうしても、救われるためには何かをしなければならないと考えてしまうようです。◇しかし、もし私たちが何か「行い」によって救われるのであれば、それは<恵み>ではなく、<自分自身から出たこと>になってしまい、結局は自分を<誇る>ことになってしまいます。神様は、救いが<神からの賜物>であることを常に明確にするために、人間の一切の行ないを無にされたのです。ですから、信仰によって救われたということを本当に知っている人は、低くならざるを得ません。クリスチャンの謙遜は、信仰による救いと深い関わりの中で生まれてくる資質なのです。◇こんなことも考えておかねばなりません。行ないには常に限界が伴いますが、信じることには、特別な人を除いて、ほとんど限界がありません。心は体よりはるかに自由なのです。民数記21:4~9。信じることは、すべての人に平等に与えられている特権なのです。神様が、すべての人を救うために、ある特定の人だけに与えられいる能力を用いられるはずがありません。救いほど平等に与えられている神の賜物はないのです。信じる者はだれでも、何の差別もなく救われるのです。そのために主イエスは十字架で死なれたのではないでしょうか。

《 記念の石 》

2004-05-16

あなたがたは、彼らに言わなければならない。『ヨルダン川の水は、主の契約の箱の前でせき止められた。これらの石は永久にイスラエル人の記念なのだ。』」(ヨシュア4:7)

 

ヨシュアはシィティムから斥候を遣わし、最初の攻撃地エリコを探らせます。イスラエルの民はヨルダン川を渡るにあたり、主は不思議を行うとの言葉を告げられます(3:5)。その言葉に従い、イスラエルの民は祭司を先頭にしてヨルダン川を渡りきりました。最初の宿営地ギルガルに彼らは記念の石塚を建てました。▽わたしたちは、踏みとどまるか、進むべきかの決断をつけなければならないときがあります。だれもが、こうした、重大な決断を強いられる、信仰の危機と呼ばれるときを迎えるに違いありません。信仰者として必要なことは、勝ち取ることです。▽ヨルダン川を渡る奇跡は、紅海をわたってから40年にもおよぶ、イスラエル人の荒野での不信仰や反逆という、主に対する、恥やそしりをぬぐうためでもありました。それだけではなく、約束の地に入るという主の御言葉が、空文であるとか、絵空事ではないことを証明するためでした。(5:9)▽現在においても、主は私たちを通して御業の実現を図ろうとされております。「それは、地のすべての民が、主の御手の強いことを知り、あなたがたがいつも、あなたがたの神、主を恐れるためである(4:24)。」▽私たちにとっての勝利とは、自分自身が戦うことのみに焦点が向かいますが、わたしたちはまず、主が先立ってくださることを忘れてはなりません。主が先立ち、勝利を約束する。そのことを信じて戦ってゆく。その結果として、私たちの証しが生まれるのです。私がおこなって誉められることではない。私たちの業を超えて主がなさせてくださる。そのところに私たちの証しが生まれるのです。

ヨシュアのように、私たちの人生にも、記念の石塚を建てようではありませんか。           (文:高木)

《イスラエルの悩みの炉》

2004-05-09

見よ。わたしはあなたを練ったが、銀の場合とは違う。わたしは悩みの炉であなたを試みた。(イザヤ48:10)

 

48章になると、神様のみことばは再びイスラエルに向けられています(1)。この章で重要なことは、バビロンの捕囚という歴史的出来事の意味が明らかにされていることです。冒頭の聖句は、それを端的に表しています。◇実は、バビロンの捕囚は、イスラエルを練り聖めるための試みだったのです。主は、<わたしは悩みの炉であなたを試みた。>と語っています。しかも非常に分かりやすく、銀が精錬されることとイスラエルが聖められていくこととを対比しているのです。銀は火できよめられ、人は悩みで聖められます。私たちは、信仰生活には、このような主からの試みがあることを知っておかねばなりません(ヘブル12:4~)。◇即ち、主なる神様は、いたずらに私たちを苦しめることは決してなさいません。私たちをご自分の子として扱っておられるので、天の御国にふさわしい者に整えてくださるのです。このことを知ってないと、私たちは、悩みの炉でいたずらに苦しむことになってしまうでしょう。ですから、悩みにはものすごく建設的な意味があるのです。悩むとき、主がこの私をどのように造り変えて下さるかを知らねばなりません。◇v11をご覧ください。<わたしのため、わたしのために、わたしはこれを行う。どうしてわたしの名が汚されてよかろうか。わたしはわたしの栄光を他の者には与えない。>と主は言われます。もしイスラエルが不誠実で(1)かたくな(4)なままであったなら、主はだれに栄光を授けることができるでしょう。主は、ご自分の民イスラエルに栄光を与えようとしておられるのです。悩みの炉で聖められた者だけが、主の栄光を受け取ることができるのです。

《バビロンに対する主の報復》

2004-05-02

おとめバビロンの娘よ。下って、ちりの上に座れ。・・・もうあなたは、優しい上品な女と呼ばれないからだ。(イザヤ47:1)

 

バビロンの娘とは、バビロン帝国の首都を指していると考えられますが、ここでは、それに対する主の報復が預言されています。◇どんな報復かと言うと、彼女はもう上品な女と呼ばれることなく、かえって奴隷女のようにされると言われています。ひき臼で粉を引いたり、顔おおいを取り去られたりと。これはまさに、王国の王女が一挙に奴隷になり下がるということです。実際に歴史の動きはこの預言の通りになっていきます。ペルシャのクロスが興って、バビロンは滅ぼされてしまいます。◇私たちの関心を引くのは、このような主の報復がなされる理由です。v6にそれが明らかにされていますが、彼らがイスラエルの民をあわれまなかったからだというのです。イスラエルの民は、確かにその不従順の故に捕囚とされましたが、それは主ご自身のなされたことであって、主なる神はバビロンにはイスラエルをあわれむことを求めていたのです。それなのに彼らはかえってイスラエルに重いくびきを負わせたのです。神のごとくさばいたのです。◇これは彼らの陥っていた傲慢です。「私だけは特別だ。」という彼らの心の中のことばが2度ほど出てきますが(8、10)、彼らは自分たちだけは滅びることがないと思い込んでいたようです。「いつまでも、私は女王でいよう。」と、自分に終わりが来るとは思ってもみなかったのです(7)。こういう彼らの高ぶりを、全地の主がさばかないわけがありません。主は<破滅はあなたの知らないうちに、突然あなたにやって来る。>(11)と伝えています。私たちは、滅びの前には必ずこのような高ぶりがあることを知っておかねばなりません。


最近のメッセージ

年月別メッセージ

アクセスカウンター

  • 今日:172   昨日:125
  • Total:183784   Online User: 0