浦和聖書バプテスト教会

6月, 2004年

《自分に呼びかけて》

2004-06-27

わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか。・・・神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。 (詩篇42:5)

 

ここには二人の自分がいます。ひとりは、辛いことがあってすっかりうなだれてしまっている自分、もうひとりは、その自分に呼びかけて励ましている自分です。◇恐らく、自分に向かい合い、自分に語りかけるということは、このような心の在り方の中で行われるのでしょう。ここでは語りかけられる自分を<わがたましい>あるいは<おまえ>と表現し、語りかける自分を<私>と区別しています。勿論、このような自分に対する語りかけがなされるのは、この地上での現実の生活にとても辛いことがあるからです。楽しいことはもはや過去の思い出になり(4)、今は敵のそしりを受け信仰が試みられているのです(3、10)。◇大切なことは、こういう苦しい状況の中で、語りかけている自分がもうひとりの自分を責めたりさばいたりしてないことです。もうひとりの自分は疲れ果て、うなだれてしまっています。もし自分で自分をさばくなら絶望しかないでしょう。しかしこの人は、<なぜ、おまえはうなだれているのか。>と呼びかけ<私はなおも神をほめたたえる。>と信仰に立つのです。ひとりの自分が絶望的な状況にあっても、もうひとりの自分が<私はなおも・・・>なのです。ここに、信仰が与えられている者の力強く、粘り強い人生があるのです。◇私たちはこの二人の自分を「現実の自分」と「信仰者である自分」という図式に置き換えることもできるでしょう。現実の自分は、この詩篇の作者ほどではないにしろ、幾度もうなだれることがあるのではないでしょうか。私たちは弱く、現実は厳しいのです。しかしその時、信仰者であるもうひとりの自分が<神を待ち望め。私はなおも神をほめたたえる。>と叫んでくれるのです。

《今週のみことば》

2004-06-20

聖書はあなたがたに知恵を与えてキリスト・イエスに対する信仰による救いを受けさせることができるのです。 (テモテⅡ3:15)

 

この短い聖句は、私たちに聖書がどのような書物であるかを知らせてくれます。◇まず最初に、聖書は私たちに知恵を与えて、救いを受けることができるようにしてくれる書物です。恐らく聖書を読んだことのない人は、救いが何であるかさえ知らないでしょう。ましてや、自分が救われねばならない存在だとは思ってもみないでしょう。しかし聖書を読み進めて行くと、私たちは、①自分が生まれながらに罪を抱えている者であること、②そしてその罪のゆえに、愛の神様と断絶状態にあること、③さらに神様の方から救いの御手を差し伸べておられること等が分かってくるのです。聖書は何よりも私たちを救いに到らせる書物なのです。◇そのために聖書は、私たちをキリスト・イエスに対する信仰にみちびきます。信仰が救われるための唯一の方法だからです。救いの必要性が分かっただけでは人は決して救われません。神様がそなえられた道に従わねばならないのです。もち論主イエスを信じるとは、主イエスがなしてくださったことを信じることです。即ち、主イエスの贖いを信じることです。この点を欠いている信仰は、ある種の信仰であっても、決して救いに到る信仰ではないのです。◇ですから最後に覚えたいことは、聖書がこのような書物であると言うこと自体、聖書は私たちに何らかの応答を求めています。信仰は私たちが客観的な知識にとどまることを許しません。三人称や二人称でなく、一人称で捉えねばならないのです。そうでないと、聖書で明らかにされた神様の救いは、決して私自身のものにはならないのです。

《アコルの谷の石塚》

2004-06-13

「あなたは、あなたの大いなる御名のためになにをなさろうとするのですか。」 (ヨシュア7:9)

 

エリコでの信じがたい成功の後、次の攻略の地としてアイを目指しました。アイを探るために行った人々は、安易な言葉で報告をし、簡単にアイを攻略しうるように考えていました。(7:3)エリコの勝利に心を緩め、自分たちの中に背信者のいることを知らない彼らは、アイの人々の反撃に会い手痛い敗北を喫したのでした。(7:5)◇ヨシュアは、こうした出来事を嘆き、長老たちと共に神の前に悔いたのでした。(7:6)ここで彼は、指導者として人々を率いる難しさを身をもって味わうこととなったのです。しかしここで注目しなければならないのは『あなたの大いなる御名のために何をなさろうとするのですか。』(7:9)ヨシュアの関心事は、自分たちの失敗により、神の御名が傷つけられることでした。このことに何よりも注意し、努力をして避けるべきこととして記憶すべきことです。◇こうして、神は、ヨシュアの切なる祈りに耳を傾け、その訴えに対する応答が、10-15節に示されております。信じるものが真の祝福を受けるために必要なことは、罪を悔い改めて、神が共にいてくださるような潔さがなくてはならないことを示されております。◇主は、アカンが罪を犯したことを白日の下にさらします。その罪の審きは、アコルの谷にアカンの遺体の上に石くれの山を積み上げ、神の審きの厳しさを憶えさせたのでした。(7:26)◇祝福の前提には、私たちの主に対する信頼が先ず必要であり、信頼がないことには祝福はありえないのです。それはとりもなおさず、神が与える祝福に対する重い責任を考えずにはいられないということを明らかにしているのではないでしょうか。(文:高木)

《バビロンから出よ》

2004-06-06

バビロンから出よ。カルデヤからのがれよ。 喜びの歌声をあげて、これを告げ知らせよ。 (イザヤ48:20)

 

70年と言う長い間、バビロンの地で捕囚とされていたイスラエルに、主は最後に、そこから出よ、と呼びかけられます。◇私たちは先ず、主がこのように呼びかけられる背景に、主の贖いのみわざがあることを覚えねばなりません。「主が、そのしもべヤコブを贖われた。」のです。主のみことばには常にこのような裏付けがなされています。ネガテイヴな言い方をすれば、主は、何の根拠もない、ことばだけの命令は決してなさらないということです。即ち、主が何かを命じられる時には、すでにみわざは確かなものとされているのです。主が解放してくださるから<バビロンから出よ。>なのです。主イエスの十字架と私たちの救いも全く同じです。◇しかし、それにもかかわらず、人はなぜ動こうとしないのでしょう。ここに、人間の生来の保守的な姿を見ないわけには行きません。イスラエルはもう70年もバビロンで生活してきたのです。70年と言えば、確実に一世代は交代しています。捕囚の身ではあっても、それなりに彼らの生活は安定し、それとなく生きていける状況にはあったのです。そういう今の生活を捨てて、これからどうなるか分からない人生に一歩を踏み出すには、それなりの勇気と決断が必要とされるのです。実際に多くのイスラエル人がバビロンに残ってしまったことが確認されています。◇こういう歴史に現れた人間の現実を見ると、信仰とは、自分の今を捨てて、主が命じられる未知なる未来に一歩を踏み出すことである、ということができます。主が<バビロンから出よ。>と命じられるのですから、バビロンから出なければならないのです。そうしなければ、一生涯捕囚の身で人生を終わらなければならないのです。


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