浦和聖書バプテスト教会

7月, 2004年

《赦されてあればこそ》

2004-07-25

だから、わたしは「この女の多くの罪は赦されている」と言います。それは彼女がよけい愛したからです。(ルカ7:47)

 

まず二人の人物、パリサイ人シモンと罪深い女とに目を留めましょう。この二人は、主イエスに接する二種類の人々の典型的な姿だと言ってよいでしょう。ひとりは愛を持って主イエスに近づき、ひとりは疑いと批判の目で主イエスを見ているのです。パリサイ人シモンは主イエスを観察するために食事に招きました。一方罪深い女は、主イエスを慕う思いからナルド香油を主の御足に注いだのです。◇私たちは、この女性の愛の深さには感心します。彼女は涙で主の御足を洗い、自分の髪の毛でぬぐい、そして石膏のつぼを割って香油を注いだのです。その間彼女はひと言も声を出していません。彼女のこの無言の行為が麗しいのは、純粋にこれが愛から出た行為だからです。もしこれが、主イエスを試すためや、主に受け入れられるためになされているなら、私たちはむしろ嫌なものを感じることでしょう。どんなよい行いも、それが愛からなされていないなら嫌なものです(コリントⅠ13:1~3)。◇では、彼女のこの愛の深さは何処から来ているのでしょうか。どうやら主イエスのたとえ話は、これを説き明かしているようです。結論から言えば、赦されているという自覚の深さが愛の深さになっているということです。決して彼女は赦されるためにこの行為をなしているのではありません。赦されているよろこびと感謝が彼女を衝き動かしているのです。ここに私たちの愛との大きな違いを見ないわけにはいきません。罪の赦しから生まれた愛は、愛から出て、愛だけを目的とした行為となって現れてくるのです。比べて私たちの愛は、愛以外のものが何と多いことでしょうか。

《バプテスマのヨハネをめぐって》

2004-07-18

あなたがたに言いますが、女から生まれた者の中で、ヨハネよりもすぐれた人は、ひとりもいません。(ルカ7:28)

 

この長い聖書箇所を通して私たちがまず最初に注目したいのは、ヨハネともあろう人でも、主イエスがまことの救い主かどうか、確かめてみたくなることがあると言う点です。もっともこのような疑いを抱く背景には、ヨハネが特殊な状況にあったことを見逃してはなりません。マタイ福音書11章を見ると、ヨハネはこの時すでに捕らえられて獄中にあったことが分かります。恐らく彼は、自分の時が迫っていることを知って、イエスがまことの救い主であることを確かめたかったのでしょう。これは決して不信仰とはいえません。彼はこのことによって確信が与えられ、安心して召されて行ったでしょう。◇主イエスも、このような疑いを抱いたヨハネを決して責めたりはしていません。それどころか、女から生まれた者の中でヨハネは最もすぐれた人物であると評価しておられます。彼は救い主イエスのために道ぞなえをする使命を持ってこの地上に登場しましたが(27)、その使命を見事に果たし終えたのです。当時のユダヤ人たちで、神様を心から信じている人たちはみな、自分の罪を悔い改めて、彼からバプテスマを受けました。◇しかし、当時神様に最も近いと自他ともに認めていたパリサイ人や律法学者は、ヨハネを拒むだけでなく、やがて主イエスを十字架につけて殺してしまうのです。評価の内容は正反対ですが(33,34)、行き着く結論は同じです。不信仰な者には、どんなこともみな否定でしかないことがよく分かります。主は<だが、知恵の正しいことは、そのすべての子どもたちが証明します。」>(35)と言われ、信じた者たちの生き様がすべてを物語ると示されたのです。

《死人を生き返らす》

2004-07-11

「青年よ。あなたに言う、起きなさい。」  (ルカ7:14)

 

主イエスが死人を生き返らせたという、聖書の中でも数少ないお話のひとつです。◇この物語の中でまず最初に注目させられるのは、人生の非情さです。v12に<やもめとなった母親のひとり息子が、死んでかつぎ出されたところであった。>とあります。この女性は夫に先立たれ、今度はたったひとりの息子にも先立たれてしまいました。文字どうり、ひとりぼっちになってしまったのです。こんなことはあってはならないと誰もが思うのですが、現実にはあり得ることです。主イエスは、町の入り口で、ちょうどこの女性と出くわされたのでした。◇このような女性を目の当たりにして、主イエスが黙って通り過ぎるわけがありません。v13に<主はその母親を見てかわいそうに思い、「泣かなくてもよい」と言われた。>とあります。主はみずから進んでこの女性の隣人になられたのです(ルカ10章)。ヘブル4:15には<私たちの大祭司は、私たちの弱さに同情できない方ではありません。>と記されています。人の悲しみが分からないような救い主は、救い主ではありません。◇さらに加えて、最後に覚えたいことは、主イエスが心を動かされたときには、主は必ず何かみわざを行われると言うことです。ここでは、死んだひとり息子を生き返らせたのです(14,15)。私たちは、人間の同情と主イエスの同情との大きな違いを見ます。私たちの場合は、かわいそうに思っても何もできないことが多いのです。人の同情には限りがあります。しかし、主イエス・キリストは死人をも生かすのです。「青年よ。あなたに言う、起きなさい」のひと言で、死人は生き返ったのです。これは、主イエスがまことに神であられることを物語っているのではないでしょうか。

《主が驚かれた信仰》

2004-07-04

「あなたがたに言いますが、このようなりっぱな信仰は、イスラエルの中にも見たことがありません。」 (ルカ7:9)

 

この百人隊長(ローマ人)の信仰を、主イエスは、イスラエル人の中にも見られないほどのりっぱな信仰と評されました。

私たちは何処にそのりっぱな信仰を見ることができるでしょう。◇まず最初に、自分のしもべが病気(中風)で死にかけた時に、その救いを主イエスに求めたということです。彼は決して世的な手段に向かいませんでした。また、「部下のひとりぐらい欠けたって、どうということはない。」とも考えなかったのです。ひとりの愛する者の救いを求めて、主イエスに<助けに来てくださるようお願いした。>のです。◇興味深いのは、一旦主イエスに来てくれるように願ったのに、途中でその態度が変わっていることです。<「主よ。わざわざおいでくださいませんように。>と主イエスの来訪を断っています。これはちょっと失礼になるような態度の変化ですが、実はここに、主イエスが感心する彼の信仰の一側面を見ることができるのです。いかにひとりのしもべを助けるためとはいえ、主イエスを動かすような態度に出てしまったことに彼は気が着いたのです。私たちは、真の謙遜をこういうところに見なければなりません。◇そして最後に何よりも注目したいのは、彼が主イエスのみことばの力を本気で信じていたことです。<ただ、おことばをいただかせてください。そうすれば、私のしもべは必ずいやされます。> これは信仰の本質をうがつような告白です。信じることに危険が伴うようなことばが氾濫してる今日です。私たちはもう一度、主イエスを信じることは主イエスのみことばを信じることであることを確認したいものです。


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