浦和聖書バプテスト教会

2月, 2010年

《何を喜んだらよいの?》

2010-02-28

   だがしかし、悪霊どもがあなたがたに服従するからといって、喜んではなりません。ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。  (ルカ10:20)

 <いつも喜んでいなさい。>(Ⅰテサロニケ5:16)と聖書は命じています。しかし、何を喜んだらよいのでしょう。◇私たちの現実に目を向けますと、あまりにも喜べないことが多いからです。ましてやそれがわが身に降りかかってきますと、たちまち喜びは失われてしまいます。どうしてそうなってしまうのでしょう。この主イエスのみことばに照らしてみると、ひとつは、どうも喜びの観点がずれているからではないかと思わせられます。普通私たちがどんな時に喜びを覚えるかといいますと、伝道の働きから帰って来たこの70人の弟子たちの姿にそれを見ることができるでしょう。この人たちはものすごい働きをしたのですから。◇しかし主イエスはそれを否定なさいます。事がうまく行ってよい結果が出た、誰だってそれは喜びです。しかし、そういう喜び方をしてるようではいけないと言われるのです。何が出来たかだけの観点で喜んでいるなら、やがて私たちは何も出来ない時を迎えるでしょう。そして何も出来なくなった時、すべての喜びを失うでしょう。◇主イエスのみことばに耳を傾けねばなりません。<ただあなたがたの名が天に書きしるされていることを喜びなさい。>と主は言われるのです。天には<いのちの書>と呼ばれる記録簿があって、そこには主イエスを信じて救われた者の名が記載されているのです(黙示21:27他)。この書に自分の名が記載されてないなら、どんなに大きな働きをしても、それはむなしく終わるのです。主イエスの救いを喜びましょう。救いを喜ぶところから人生のすべてが始まるのです。

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教会写真紹介

2010-02-27

浦和聖書バプテスト教会の外観写真です。

当教会は十字架が上にありますので、初めてお越し頂く際には目印となります。

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玄関先です。車いすでも簡単に入れるようにバリアフリー設計となっています。

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川島牧師です。毎週、聖書の深い話しをわかりやすく説教してくれます。神学校の教師も担っています。

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礼拝堂です。ここで集会を行います。

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その他の写真です。

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教会紹介

2010-02-27

当教会は聖書を信仰の基準とする正統的バプテスト教会です。

教会は、クリスチャンの方だけが通うところではありません。

聖書に興味をお持ちの方、この世界の真理を求めている方など、

宗教に関係なく「どなたでも」お越し頂けるところです。

また、入会手続きもなく、すべてが無料です。

以下の日程で集会を行っています。どの集会にでもお気軽にお越し下さい。

詳細はホームページでご確認ください。

日曜日 日曜学校  9:00-10:00 幼・小学クラス、中・高クラス、成人クラスに分かれてうたったり、ゲームをしたり、聖書のお話を聞いたりして楽しく過ごします。幼いときに豊かなこころを養えますように願っています。また、お子さんが安心して集えるよう、送り迎えも行っています。
礼拝(朝の集会) 10:30-12:00 賛美と祈りをささげ、聖書のメッセージに耳を傾ける時、心は神様の愛に満たされ、新しい力がわいてきます。初めての方によい集会です。月の4番目の日曜は特に初めて来た方にも分かりやすいメッセージが準備されています。
水曜日 聖書研究会・祈り会 19:00-20:30 聖書を組織的に学びます。また、心をひとつにして祈りあい、生きた実践的信仰を学びます
木曜日 婦人集会 10:00-12:00 婦人のかかわりのあるテーマで聖書を学びます。また、その後で有意義な交わりの時をもちます。お子さんといっしょにどうぞ。
第4火曜日 お話の会― "ろばのこ" 10:30-11:30 未就学児対象です。お母さんと一緒に絵本の読んだり、ゲームをしてあそんだり、おやつを食べたりして楽しく過ごします。

《赦されること・赦すこと》

2010-02-26

  「主よ。兄弟が私に対して罪を犯した場合、ばあい、何度まで赦すべきでしょうか。(マタイ18:21)

 ペテロのこの素朴な質問に対して、主イエスは一つのたとえ話をしてくださいました。◇このたとえ話でまず第一に覚えたいことは、私たち人間は、神と人と、両方の係わりの中に生かされているということです。近代人はこれを、神との係わりを否定して、人との係わりだけにしてしまいました。そこに、現代の様々な病的な現象の源があると言わねばなりません。神との交わりを否定したとき、私たちは、人との係わりをどこに位置づけてよいか分からなくなってしまったのです。◇では、神様はどんな係わりの中に私たちを置いておられるのでしょうか。それは圧倒的な赦しです。主イエスの十字架の死は、神様の赦しそのものです。罪はさばかれねばなりません。神様は、ご自分のかけがえのない御子に身代わりのさばきを受けさせることによって、私たちの罪をすべて赦されたのです。すでに私たちは赦され、借金は免除されているのです。この神様のあわれみの中に生きていくことは、私たちのたましいにとって最も重要なことです。赦しを知らないたましいは、不安と恐れを背負い続けていかねばなりません。これが、神様との交わりを断ち切った現代人の姿なのです。◇さらに、赦されていることを忘れているたましいは、決して赦すことができません。このたとえのしもべがそれを示しています。彼は一万タラントを赦されているのに百デナリを赦すことができないのです。百デナリとは、私たちの現実的な金額です。しかし、現実的であればこそ、かえって古い罪の性質に動かされてしまうということがあるのではないでしょうか。仲間をつかまえ、首を絞めて、「借金を返せ。」といきり立っている姿をどう思うでしょうか。

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《ことばと権威》

2010-02-26

  そのとき、主は御手を伸ばして、私の口に触れ、主は私に仰せられた。「今、わたしのことばをあなたの口に授けた。 (エレミヤ1:9)

 何をどう語ってよいか分からない。これはエレミヤだけでなく、みことばの働きをなそうとする者なら誰でも覚える悩みです。◇しかし主は、御手を伸ばして彼の口に触れ、彼に主のことばを授けてくださいました.。<今、わたしのことばをあなたに授けた。> このような主の取り扱いを受けて、彼は主の預言者として立って行くのです。これは、私たちにも必要な主の取り扱いではないでしょうか。イザヤも同じ経験をしてることをイザヤ書6章に確かめることができます。◇三つの重要な意味が考えられます。ひとつは、自分の言葉が聖められることです。私たちは、普段ずいぶんと汚れた言葉を使っているのではないでしょうか。ヤコブ書3:11には<泉が甘い水と苦い水を同じ穴からわき上がらせるというようなことがあるでしょうか。>と問いかけられています。主のみことばを語る者は、まず、汚れた言葉、人を傷つける言葉を聖めていただかねばなりません。◇二番目に重要なことは、何を語るか、即ちその内容です。私たちは、自分の思想や哲学を伝えるのではなく、キリストの福音を語らなければなりません。<ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシャ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。>(コリントⅠ1:22,23) ◇最後に覚えたいことは、ことばの権威の問題です。<あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります。>(ヨハネ20:23)と主イエスは言われました。私たちクリスチャンには、罪を赦す権威が授けられているのです。

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《神の聖定に生きる》

2010-02-26

 

  「わたしは、あなたを胎内に形造る前から、あなたを知り、…あなたを聖別し、…定めていた。」 (エレミヤ書1:5)    

 人生には自分で自由に選んでよいものと、決してそうしてはならないものがあります。もしエレミヤが預言者になるのを自由に避けていたなら、恐らく彼は一生の間「生きる意味」をつかむことができなかったでしょう。◇実は彼は、気持ちの上では、預言者になりたくなかったのです(6)。彼はもともと祭司の家系に生まれましたから(1)、そのまま祭司職を受け継いで生きて行くなら、それなりの人生を歩んで行けると考えていたのでしょう。しかし、冒頭の主のみことばは、神の永遠の計画においては、彼が祭司ではなく預言者として生きるように定められていると伝えているのです。これを、神学のほうでは「神の聖定」言っています。◇この神様の永遠の計画はだれにでもあるわけですが(エペソ1:4)、問題は、ほとんどの人がそれを自由な選択によって避けて生きてることです。これが罪の本質的な姿です。何もかも自分で決められると考えているところに、最大で致命的な間違いがあるのです。人生には、あらかじめ神の定めておられるものがあります。それに従わなければ、私たちはいつまでも迷いの中を歩まねばならないのです(ローマ3:12)。◇神の聖定には従わなければなりません。創造主は何よりもそれを願っておられるのです(テモテⅠ2:4)。クリスチャンとして生きることを、自分で決められると考えている人はいないでしょうか。そうではありません。それは従わねばならないことなのです。神の聖定のない人はひとりもいません。神様を信頼し、神様に従って生きることは、すべての人に定められている永遠の計画なのです。

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《疑うことと信じること》

2010-02-26

  イエスは彼に言われた。「あなたはわたしを見たから信じたのですか。見ずに信じる者は幸いです。」  (ヨハネ20:29)

 クリスチャンがみんな集まるときには、いっしょにいるようにしたほうが良いようです。トマスは、よみがえった主イエスが現れたとき、ひとりだけそこにいませんでした。そのため、一週間、彼がどれだけ信仰による疎外感を味わったことでしょうか。◇「主イエスはよみがえった。」とみんなが喜びと驚きに沸き立っている中で、ひとりだけぽつんと「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません。」と、信じられない苦しみの中に取り残されていなければならなかったのです。しかし、トマスのこの姿こそ、科学的な実証を経なければ何も信じられない現代人の姿ではないでしょうか。◇こういうトマスために、まさに彼ひとりのために、八日後に、主はもう一度現れてくださいます。主は、今度は他の弟子たちには目もくれず、まっすぐトマスに向かいます。そして、釘に打たれた手と槍に刺されたわきを彼に示し、「信じない者にならないで、信じる者になりなさい。」とやさしく諭してくださったのです。トマスは「私の主。私の神。」と言っただけで、後は絶句してしまいます。◇トマスは私たちの代表です。もしトマスと同じ経験をしなければ信じられないのなら、主イエスは今でもひとりひとりのところに来て、釘と槍の跡を示して歩かねばならないでしょう。主イエスがなぜトマスひとりのために現れてくださったかというと、この地上にはトマスのような人がたくさんいるからです。私もそのひとりです。だから主は、トマスを通して、実証主義に毒されている私たちを諭しておられるのです。< 見ずに信じる者は幸いです。>

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《解決されてない罪》

2010-02-26

  すると、兄はおこって、家にはいろうともしなかった。 (ルカ15:28)   

 この放蕩息子のたとえ話は、兄の姿が語られることによって、より意義深いものになっています。主イエスは、この兄の姿をもって、暗にパリサイ人(2)を批判しているのです。◇物語のほうに目を向けましょう。長いこと行方知れずになっていた弟が、挫折してボロボロになって返ってきたのに、この兄はどうして喜べなかったのでしょう。ここに、この模範的な兄(29)の抱えている罪が露顕しているのです。さかのぼって、この弟が家を飛び出したのも、この兄のコンプレックスが大きな要因になっていたことは疑う余地がありません。この兄の罪のコンプレックスは、彼が優位な立場にあるときは隠れていて見えませんでしたが、今ちょっと立場が逆になっただけで噴出してくるのです。彼は、おこって、家にはいろうともしませんでした。◇心理学のほうではこれを旧約聖書の物語(創世記4:1~16)に因んでカインコンプレックスと呼んでいますが、これはだれにでもある感情ではないでしょうか。自分をこの兄の立場において見るとよく分かります。この日も父親の命に従い一日中畑で仕事をしてきました。土に汚れ、疲れた体で返ってきたところが、このお祭り騒ぎです。たいていの人が頭にくるでしょう。この兄は、一挙に父親に対する不満もぶちまけています(29.30)。◇私たちはここに、最も恵まれたところにおり、最も恵まれたものに預かってい、しかも本人も模範的な歩みができているのに、相変わらず罪の支配に動かされている人の姿を見ます。一方は、罪のゆえにボロボロになるような挫折を経験しているのに罪の悔い改めにみちびかれ、他方は、模範的な歩みをしてるのに未だ罪の支配の中にあるのです。考えさせられます。

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《挫折と自覚》

2010-02-26

  この息子は、死んでいたのが生き返り、いなくなっていたのが見つかったのだから。」 (ルカ 15:24)

 落ちるところまで落ちてしまった放蕩息子ですが、その後の歩みには、私たちにも大いに学ぶべきものがあります。

◇v17に<しかし、我に返ったとき彼は…>と出てきます。彼は自分を取り戻すことができたのです。ということは、今までの彼は、自分ではなかったということになります。自分でありながら自分でない。恐らく彼は、自分でも何がなんだか分からないうちに、いなご豆を食べねばならなくなってしまったのでしょう。罪に中に生きてる人は、自分なのに自分を生きることができないのです。◇<我に返ったとき>この息子は、三つの大切なことを自覚しています。ひとつは、自分がいるべきところにいないということです(17)。これは罪の本質的な姿です。次に、自分が犯した罪を自分の責任で受け止めていることです(18)。これも素晴らしいことです。第三に、ひとことで言えば、謙遜です(19)。それも、単に儀礼的に身につけた謙遜ではなく、心からそうなっているのです。彼の素晴らしいところは、こういう自覚を持って、父のところに戻っていったということです(20)。彼は、真の悔い改めに導かれたのです。◇その後の物語は省略するとして、ここで私たちは、挫折の持っている大切な意味を知っておかねばなりません。もし彼が、このような挫折を経験しなかったら、相変わらず罪のコンプレックスを抱えたままで、毎日うつうつと過ごしていたでしょう。世の中には、我に返ることなく一生を終えていく人も多いのです。しかし、彼は、死ぬような挫折を経て、自分に返り、父に返り、神様のもとにも返っているのです。まさに父のことばとおり、<死んでいたのが生き返った>のです。自立は、真の悔い改めから生まれます。

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《 自立と冒険 》

2010-02-26

  それから、幾日もたたぬうちに、弟は、何もかもまとめて遠い国に旅立った。 (ルカ 15:13)

 「自立」と言いますと、私たちはすぐ経済的な自立のことを考えてしまいますが、経済的な自立は、精神的・心理的な自立があってはじめて成り立つものであることを知っておかねばなりません。◇この主イエスのたとえ話に登場してくる放蕩息子は、このことを良く示してくれていると思います。彼は父親の身代を分けてもらったのですから、はじめから経済的な自立をするには十分であったわけです。しかし、心の面での自立ができていなかったために、その財産を放蕩して湯水のように使ってしまうのです。心の面での自立ができてない人は、豊かな賜物を与えられていても、それを活かすことができません。勿論、信仰生活においても同じことが言えます。◇しかし、そうであれば、この父親の姿は不思議です。自立ということで不十分と分かっている息子に、どうしてだまって身代を分けてやったのでしょう。失敗するであろうと分かっている息子を、どうして遠い国に旅立たせたのでしょう。この後の物語で明らかなように(20)、この父親は決して無責任な放任主義者ではありません。だれよりもこの息子を愛し、心配していたのです。それならばなぜ、挫折に向かう息子の歩みにストップをかけなかったのでしょう。◇実はここに、自立という人生における非常に重要なテーマがあるのです。自立とは、自分の人生を自分で生きぬくことです。ですから、管理や強制の中では学ぶことはできないのです。管理や強制の中にいれば失敗の危険はないでしょうが、自立を学ぶこともできないのです。ここにこの父親の知恵があります。この父親は、そう言う意味で、息子に冒険をさせ、みずからも冒険をしているのです。

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