浦和聖書バプテスト教会

3月, 2010年

《一番最初に救われた人々》

2010-03-30

  きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。   (ルカ2:11)

 救い主が生まれたという喜びの知らせは、まず野原の貧しい羊飼いたちに伝えられました。これが神様の決められた順番だったようです。しかし、もし、彼らがこの知らせを聞いただけで終わらせてしまったら、はたして彼らは救いの喜びに預かることができたでしょうか。◇彼らはまず決断したのです(15)。この決断をするのには、いろんな迷いもあったでしょう。何よりも、羊を夜の野原に放って置くことになります。どんな危険が伴うか、だれよりも彼らが一番よく知っていたはずです。しかし、もしここで彼らがひるんでしまったら、彼らは救い主に会うことはできなかったのです。◇彼らは心を決め、それを実行したのです(16)。人口調査のためにごった返していたベツレヘムで、飼葉おけに寝ておられるみどり子を捜し出すことは、けっこう大変なことだったでしょう。一軒一軒をたずねて、家畜小屋を見て回らねばならなかったのです。もち論、野原に残して来た羊も気にかかります。途中であきらめたら、彼らに救いはなかったのです。しかし、彼らは終に、飼葉おけに寝ておられるみどり子を捜し当てたのです。◇大切なことは、このようにして羊飼いたちが、御使いから伝えられたことを全部確認したことです(20)。すばらしい喜びの知らせが、このようにして自分自身のものになったのです。彼らは、神をあがめ、賛美しながら、また野原に帰って行きました。以前の彼らとどこが違っているでしょう。彼らは同じ環境で、同じ仕事に帰って行ったのですが、その心には、神をあがめ、賛美する喜びが満ち溢れているのです。彼らは、救われたのです。

《天とのつながり》

2010-03-29

  それはあなたがたがわたしを愛し、・・・信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです。  (ヨハネ16:27)

 主イエスの御名によって祈るということは、私たちの願いが間接的に段階を経て天に届くということではありません。即ち、私たちの願いが主イエスのところで一端プ-ルされて、そこで御心にかなうものだけが選別されて父に伝えられるというのではないのです。もっと端的に言い換えれば、主イエスが私たちに代わって父に願ってくださるというのではないのです(26)。私たちは、直接、天につながっているのです。◇しかしこのことは、私たちの願いが、主イエスを素通りしているということでもありません。罪のきよめを成し遂げられた主イエスは、今、御父の右の座についておられ(ヘブル1:3)、父とともに私たちの願いを聞いてくださるのです。ですから私たちは、主イエスのとりなしを、ひとつひとつの段階を踏んでからでないと最終的に合の認定がでない、あの七面倒くさい役所の手続きのように考えるべきではありません。私たちの地上の願いは、主イエスの御名によって祈るとき、一挙に、何の妨げもなく、天に届いているのです。このことは、勿論、地から天への方向だけでなく、天から地への方向でもなされています。◇<父ご自身があなたがたを愛しておられる>と主は言われます。主イエスのみわざによって、それまで断絶状態にあった天と地は、見事につながったのです。私たちは直接天に向かって祈ることができ、天からは、直接御父の愛が届いているのです。私たちクリスチャンは、自分がこのような特別な立場に置かれていることを、どれだけ意識しているでしょうか。祈らないでいることは、この特権を放棄していることになるのです。

《主イエスの御名によって祈る》

2010-03-26

  あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。  (ヨハネ16:24)    

 これまでの弟子たちは、何か困難が生じたら、直接主イエスに訴えればよかったのです。肉体をそなえた主イエスが、彼らの目の前におられたのですから。◇しかし、これからはちがいます。しばらくすると、主イエスの姿をもうこの地上に見ることができなくなります。その時が来たら、彼らとて、主イエスの御名によって祈る必要があるのです。もち論これまでにも、彼らはそれなりの祈りの生活はしてきました。しかし、主イエスも言われたとおり、主イエスの御名によって求めたことはなかったのです。また、そうする必要もなかったのです。これはまちがいなく、祈りの生活の新しい時代の到来を意味しています。◇主の御名によって祈るとは、祈りの単なる形式ではないのです。それはまず何よりも、私たちの地上の祈りが、確実に天に届くことを意味しています。<あなたがたが父に求めることは何でも・・・>と主は言われます。私たちの祈りのすべてを、主イエスが責任を持って引き受けてくださるのです。私たちは、かつては、どのように祈ったらよいか知らない者ではなかったでしょうか。自分の願いを天に届かせるために、私たちは実に愚かな異教的な方法に頼っていたのです。◇またある人々は、心に願いを持っても、それを祈ることはしなかったのです。願いが心の中で埋もれてしまったことはなかったでしょうか。御名によって祈るということは、私の心の願いが天に届くということなのです。<求めなさい。そうすれば受けるのです。>と主は強く語られます。信仰生活は、求めてみなければ分からないのです。喜びが満ち満ちたものになるまで祈りましょう。

《十字架とよみがえりの予告》

2010-03-25

  しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます。 (ヨハネ16:16)

 この主イエスのみことばが、主の十字架の死とよみがえりを予告していることは、今の私たちには誰にも明らかですが、当時の弟子たちにはまるで理解できなかったようです。◇弟子たちの間に、ちょっとした議論がもち上がります(17,18)。<どういうことなのだろう。><何のことだろうか。><私たちには主の言われることがわからない。> これは、弟子たちの率直な気持ちだったのでしょう。しかも彼らは、主に質問することもできず、もじもじしていたようです(19)。十字架とよみがえりが、どんなに信じ難く、理解し難いものであるかを、この弟子たちの姿はよく物語っています。救い主のみもとにいた弟子たちでさえ、主の救いのみわざを予測することはできなかったのです。◇すべてを知っておられたのは、主おひとりだけでした。主は、出産の苦しみと喜びを例に挙げて(21)、これから起こり来ることを明らかにしておられます。死の苦しみを経てよみがえりの喜びに。これは、私たち罪人を救うために、どうしても通らねばならない道のりだったのです。しかし、その激しい苦痛は、よみがえりの喜びに到った時には、忘れ去られていくと主は言われます。◇そして、その道のりは、主に従う弟子たちも辿っていかねばなりません。<あなたがたは悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります。>(20)。<そして、その喜びをあなたがたから奪い去る者はありません。>(22)。

十字架とよみがえりの秘儀は、信仰生活の真髄ではないでしょうか。悲しみが喜びに変わるまで、今しばらく、私たちも時を経なければならないのです。

《神の愛に満たされて》

2010-03-24

  愛する者たち。私たちは、互いに愛し合いましょう。愛は神から出ているのです。  (ヨハネⅠ4:7)

 よほどおヘソの曲がった人でない限り<互いに愛し合う>ことに反対する人はいないでしょう。しかし、今の私たちの時代は、愛し合うことが非常にむずかしい時代になってきている、と言ってよいでしょう。多くの人が、愛し合うことのむずかしさに悩んでいるのです。◇私たちは、どこにその原因があるのかを、じっくり考え直してみる必要があるようです。聖書は、その根本原因を、本当の愛を知らないからだと伝えているのです。愛を知らずに愛そうとすれば、それは自己流の愛にならざるを得ません。ですから、自分では愛しているつもりであっても、かえって相手を傷つけたり、時にはダメにしてしまっているのです。自己流の愛は危険きわまりないものなのです。◇聖書は、<愛は神から出ているのです。>と断言します。<私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し>と言います。この「神からの愛」を無視してるところに、私たちの的外れ(罪)の姿があるのです。愛はまず受けるものです。知らねばなりません。自分の心が愛に満たされてはじめて、外に向かうことができるのです。心が空っぽであったり、異質なものや汚れたものが満ちているのに、どうして愛することができるでしょうか。◇では、神の愛はどこに示されているのでしょう。9,10節のみことばに、私たちは自分の深い思いをめぐらせなければなりません。<ここに愛があるのです。>と二度も強調されているからです。「ここに」と言われているのですから、「ここに」目を留め、思いをめぐらせねばなりません。御子イエス・キリストのなだめのみわざこそ、神の愛の至高の現れなのです。私たちは、どこに神の愛を捜しているのでしょうか。

御霊はわたしの栄光を現わします

2010-03-23

  御霊はわたしの栄光を現わします。わたしのものを受けて、あなたがたに知らせるからです。 (ヨハネ16:14)

 御霊(聖霊)は、主イエス・キリストの栄光を現わすためにこの地上に来られました。従って、御霊が私たちに与えてくださる恵みはすべて、主イエス・キリストから来ているのです。◇このことはまず、御霊ご自身は、自分が崇められることを望んでおられない、ということを意味しています。この点では特に、信仰の奥義をつかんでいるクリスチャンたちに注意を促してくれます。あまりにすばらしい聖霊の恵みに預かると、知らぬ間に聖霊を崇めるようになっていくからです。これは自然な傾向なのでしょうが、決して御霊の本意ではありません。御霊は主イエス・キリストの栄光を現わすために私たちに臨んでおられるのです。◇従って御霊は、主イエスの御名が崇められることを何よりも喜んでくださいます。聖書の中に<神の聖霊を悲しませてはいけません。>(エペソ4:30)という勧めがなされていますが、これは何も大きな罪を犯すことだけでなく、御霊の本意を損なうことをも含めて受け取らねばなりません。主イエスの御名が軽んじられることは、御霊の大きな悲しみなのです。私たちの神は三位一体の神です。聖霊単独の働きなどというものを考えてはならないのです。◇聖霊は、主イエスの御名が崇められることを何よりも喜んでくださいます。ですから、思い切って人間的な言い方をすれば、主イエスを崇めるところに聖霊の働きがなされるということです。私たちは、聖霊の助けを求めようとするなら、まず、主イエスを崇めているかどうかを吟味する必要があります。主イエスを軽んじていながら聖霊の恵みに預かる、などということはあり得ないことなのです。

《真理の御霊が来ると》

2010-03-22

  しかし、その方、すなわち真理の御霊が来ると、あなたがたをすべての真理に導き入れます。  (ヨハネ16:13)

 地上におられた主イエスは、肉体を持っておられたがゆえに、それなりの制限を抱えていました。しかし聖霊は、それらの制限をすべて払い去ったのです。◇弟子たちが、主イエスの十字架とよみがえりの意味を本当に理解したのは、御霊が来られた後でした。死をも辞さない信仰の力を身に帯びたのも御霊が来られた後です。不思議なことですが、彼らが主イエスのことを理解できたのは、主が地上におられたときではなく、主がいなくなってから、すなわち御霊が来られてからなのです。◇この事実から、私たちはひとつの大切な点を確認しておかねばなりません。それは、聖霊の助けなくしては、だれひとり、信仰の真理に到ることはないということです。<御霊は自分から語るのではなく、聞くままを話し、また、やがて起ころうとしていることをあなたがたに示す>と主は言われました。<御霊がわたしのものを受けて、あなたがたに知らせる>とも言われました。今日私たちは、この聖霊の助けをどれだけ知っているでしょうか。◇私たちは「知る」ということを、あまりに自分(人間)中心に考えてしまっているのです。たとえば聖書。聖書をよく研究すれば、だれもが神様を知ることができるのでしょうか。もしそうなら、この世界にはもっとたくさんのクリスチャンがいていい筈です。現実がそうでないことは、私たちが一番良く知っています。知性で知ることと心で知ることとは、必ずしも一致してないのです。聖霊の助けなくしては、神様を信じることさえできないのです。特に、十字架とよみがえりの秘儀は、聖霊の助けがなければ、決して「アーメン」とはならないのです。

《なぜ主イエスが試みに?》

2010-03-21

 

  さて、聖霊に満ちたイエスは、・・・40日間、悪魔の試みに会われた。 (ルカ4:1,2)

 それにしても何故主イエスは、こんな生死を分けるような厳しいサタンの試みを受けねばならなかったのでしょう。訓練のためでしょうか。◇訓練という点では、主イエスと私たちとではまったく違うと言わなければなりません。天の働きをするためには、確かに私たちには訓練が必要です。旧約の預言者もこれを明らかにしています(イザヤ48:10,11)。私たちはもともと罪人ですから、神の栄光を現すためには練りきよめられる必要があるのです。しかし、神のひとり子、主イエスにはそんな必要は初めからまったくありません。◇では何故、主イエスはこんな苦しみを経験しなければならなかったのでしょう。聖書にはその理由が明確に示されています。ヘブル書4:14~16。私たちの苦しみを理解し、心から同情し、私たちを助けるためなのです。先ず主は、すべての点で私たちと同じように試みに会われたのです。私たちが受けている試みは、主が経験してないものは何もないのです。ですから主は、心から、私たちの弱さに同情できるお方です。同じ苦しみに由来する偽りのない真実な同情です。さらに主は、サタンに完全に勝利されたお方ですから、私たちに<おりにかなった助け>を与えてくださるのです。状況がどんなに変化しても、その時その時にふさわしい助けをくださるのです。◇年頭の聖句を改めて覚えねばなりません。箴言3:5,6。このような主がともにいてくださるのに、この主に拠り頼まず、自分の悟りで生きて行くのは罪ではないでしょうか。信仰とは、主に拠り頼むことです。どんなつらい朝も、どんなむごい夜も、主はともにいてくださるのです。ヘブル書の著者の奨めのように<大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。>アーメン。

《試みと御霊のささえ》

2010-03-21

  

  さて、聖霊に満ちたイエスは・・・御霊に導かれて荒野におり・・・悪魔の試みに会われた。  (ルカ4:1,2)

 <御霊に導かれて>とあります。あまりよい訳ではありません。思い切って「御霊にささえられて」と訳したほうが、ここでの意味を的確に捉えることになるでしょう。◇と言うのは、神様が私たちをサタンの試みに導かれるようなことは決してなさらないからです(ヤコブ1:13~15)。逆です。神様はどんな試みの中にあっても、聖霊によってわたしたちをささえ守ってくださるのです。ここに、主イエスが<聖霊に満ちて>この厳しいサタンの試みを受けられた理由を見なければなりません。このような試みは、聖霊に満たされ、聖霊のささえなくしては決して乗り切ることはできないのです。◇パウロの有名なことばを想い起します(Ⅰコリント10:13)。聖霊なる神は、私の置かれている状況も、私の個人的な能力もすべてご存知であられます。ですから、<耐えられないほどの試練に会わせることはなさらない>のです。これが御霊の守りです。加えて、必ず<脱出の道も備えてくださいます。>これが御霊の導きです。従って御霊のささえの中にある私たちには、絶望や破滅はないのです。サタンがいかなる試みを仕掛けてきても、御霊にささえられている私たちには敗北はないのです。◇さらに、それだけではありません。サタンの試みを乗り切った主イエスに目を留めてください。<イエスは御霊の力を帯びてガリラヤに帰られた>(14)とあります。今まで以上に、一層、御霊の力をいただいているのです。これは決してサタンの試みがなくなったと言うことではありません(13)。これからの伝道生涯に襲ってくるさらなるサタンの攻撃にも勝利できる御霊の力を持たれたということなのです。

《去っていくことが益?》

2010-03-20

  しかし、わたしは真実を言います。わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。 (ヨハネ16:7)

 この世の中で最も悲しいことは、愛する人との別離でしょう。主イエスが「わたしは去って行きます。」とあからさまに伝えたとき、弟子たちの心は、悲しみでいっぱいになってしまいました(6)。しかし、そういう弟子たちの心を汲み取って、主は<わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです。>と告げられたのです。◇これは、あまりにも不思議なみことばですが、実はここにこそ、神の救いのみわざが完結することが明らかにされているのです。私たちは、救いのみわざを主イエスの十字架のみに焦点をあてて見がちですが、十字架は出発点なのです。十字架、よみがえり、昇天、聖霊降臨となってはじめて、みわざは完結するのです。もし私たちが、主イエスの死を悲しむだけで終わったなら、そこには何の救いもないと言わねばなりません。◇主は確かに去って行かれます。しかし、主が去って行かれたから、聖霊なる神<助け主>が地上に遣わされたのです。この聖霊の助けがなければ、私たちは、自分の罪を認めることすらできません(8)。このことは、弟子たちの歩みを辿ってみると非常によく分かります。十字架のときには、弟子たちはみな主を見捨てて逃げてしまいました(マルコ14:30)。主のよみがえりには驚くべき喜びを覚えたのですが、それでもまだ世俗への執着を断ち切れないでいます(ヨハネ21:3)。彼らが本当に造り変えられたのは、聖霊が臨まれた後なのです(使徒2章)。◇私たちは、ひとつのことに留意せねばなりません。十字架もよみがえりも主イエスの身の上に起こったことです。しかし聖霊降臨は、弟子たちの身の上に起こっているのです。

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