浦和聖書バプテスト教会

3月, 2010年

《自分を活かす》

2010-03-19

  よくやった。良い忠実なしもべだ。あなたは、わずかな物に忠実だったから、私はあなたにたくさんの物を任せよう。   (マタイ5:21)

 だれでも、この地上の一回限りの人生、自分を活かした歩みをしたいと願っています。しかし現実は、なかなか思うようにならないようです。◇この主イエスのたとえ話にも、自分を活かせた人とそうでない人とが出てきます。はじめの二人のしもべは自分を活かせた人です。彼らは、主人から預かったタラントを、それぞれの能力に応じて活かすことができました。しかし三番目のしもべは、預かったタラントを、当時の社会状況では最も安全と思われる方法で隠してしまったのです。後でこのしもべは、主人から「悪いなまけ者のしもべだ。」と叱責され、そのタラントを取り上げられてしまいます。◇どうして彼はタラントを隠したのでしょう。25節にその理由が彼自身のことばで示されていますが、ひとことで言えば、失敗を恐れたのでしょう。成功する確率が100%なら、だれだってタラントを活用するでしょうが、世の中はそんなに甘いものではありません。失敗する危険性は何をするにもつきものです。そこで彼はどう考えたかというと「苦労して失敗するよりも、何もしないで失敗しない方がまだいい。」と自分を守ったのです。これが彼の人生哲学です。◇しかし、言うまでもなく、これも罪なのです。主イエスはこのたとえ話を非常に厳しいことばで結んでいます(30)。天の御国が来た時(地上の人生が終わる時)、<泣いて歯ぎしりする>ことにならないように、私たちはこれからの人生をどう生きるかを考えねばなりません。失敗の危険のない人生は楽かもしれません。しかし、そういう人生は、神様の役にも立たないのです。

《獅子の穴》

2010-03-19

  大臣や太守たちは、国政についてダニエルを訴える口実を見つけようと努めたが、何の口実も欠点も見つけることができなかった。  (ダニエル書6:4)

 古代バビロニヤ帝国のネブカデネザル王の死後、メディア人のダリヨスが王位を引き継いだ。ダニエルは3人の大臣の一人であり、神の霊が宿っていたので際立って優れていた。そのため、ほかの大臣や太守たちは嫉妬し、訴える口実を探した。どうしても、彼を陥れることができなかった彼らは、ダニエルが、日に三度主に祈りを捧げていることをつかみ、「王以外のものに祈るものはライオンの穴に投げ込むという法令を王に作らせた。彼らの奸計にかかったダニエルは、法令のもと獅子の穴に投げ込まれた。◇妬み、羨望というものは、あまりに遠くの人、あまりに違う人を羨望することはありえない。より強い妬みは、一人が成功し、ほかの一人は成功しないというような、仲間の間で生じる。妬みは、行動することを断念し、目標をさえも放棄する。ただ、彼が不成功に終わればと願う。◇この願望はたとえクリスチャンであっても解消しにくい罪のひとつではないでしょうか。御心を忘れ、御心に集中するのではなく、競争者、成功者のことばかり考え、その人々に羨望を抱いているとすれば、そういう不毛な怨恨を抱くことで自分のエネルギーを浪費するだけでなく、自分が盲目にすらなりかねないものであります。まさに、妬み、羨望とは私たちが目指すべき御心から遠ざけているものを探している姿にほかなりません。◇それゆえに、何をするにしても、唯一の救いは、全力で十字架を負い、その目指すべき御心を追い求めていくことのほかに、羨望や妬みから救われていくことはできないのです。(文:高木)

《つまずくことのないために》

2010-03-18

  これらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがつまずくことのないためです。 (ヨハネ16:1)

 まず、主イエスがこの地上を去った後に、弟子たちにとってどんな時代がくるかを主が明らかにしておられることに注目しましょう(2,3)。<人々はあなたがたを会堂から追放するでしょう。>と主は言われました。これはユダヤ人社会に生きていけないことを意味します。<あなたがたを殺すものがみな>と言われていますから、実際に迫害を受けて殺されることになるのです。しかも迫害する者たちは<そうすることで自分は神に奉仕しているのだと思う>というのですから、これはどうしようもありません。しかし、これは現代の私たちの時代に酷似してないでしょうか。◇しかし幸いなことに、このような恐ろしい迫害の一つ一つを受けながら、弟子たちは、かつて主イエスが語られたことを<思い出す>というのです(4)。即ち、今起こっている困難は偶然に彼らを襲ったものではなく、あらかじめ全能なる神様に覚えられていることである。つまり、確かに恐ろしく辛いものではあるが、それは遠大な神のご計画の中にあることであると知ることができるというのです。今は理解できていなくても、みことばを耳にしておれば、<その時が来れば>すべてが納得いくようになるというのです。◇実際に、私たちの信仰生活には、こういったことが限りなくあります。時を支配してるのは、まさに神ご自身です。みことばが、時と場を得て、その人のうちに主体的に結実するのです。このことを知らないでいると、起こってくる出来事にあわてふためき、つまずいてしまうのです。信仰生活には、未来を希望する面と、過去を確認する面があることを決して忘れてはなりません。<その時が来れば>すべてが分かるのです。ハレルヤ。

《自分の十字架に向かう》

2010-03-17

    立ちなさい。さあ、ここから行くのです。  (ヨハネ14:31)

 主イエスの別離のメッセージはまだまだ続いて行きますが、話が一段落したところで語られたこのみことばには、主イエスの十字架に向かっていく並々ならぬ決意が伺われます。◇主は決して、十字架を避けようとはしていません。人々の罪の贖いのために身代わりとなって死ななければならないことを知っておられた主は(10:18)、毅然と十字架に向かっていかれるのです。勿論、十字架がどんなに苦しい刑であるかを十分承知の上でです。しかも、この短いみことばは、弟子たちに主イエスとともに十字架に向かうことを促しているのです。これも、弟子たち全員に裏切られることを承知の上でです。私たちは、こういう主イエスの姿に何を感じるでしょうか。◇辛いことや苦しいことは誰だっていやです。私たちは、自分が死ぬときでさえ安楽を求めるのです。しかし、それぞれの人生には、どうしても担っていかねばならない重い課題があるのも事実ではないでしょうか。特に、神の国のために何かをなそうとする者は、その重荷は限りなく重いと言わねばなりません。けれどもそれを避けていたら、神の働きはできないのです。<さあ、ここから行くのです。>と、それぞれの十字架に向かわねばならないです。◇主イエスも他の福音書で、人にはそれぞれ負うべき<自分の十字架>があることを示しておられます(マタイ10:38,16:24)。主イエスに従うということは、この自分の十字架を負うことでもあるのです。楽しい夢を見ているような信仰生活は何処にもありません。私たちは、自分の負うべき十字架を決して放棄してはならないのです。<立ちなさい。さあ、ここからいくのです。> アーメン。

《主の死を喜ぶ》

2010-03-16

  あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。 (ヨハネ14:28)

 自分の救い主と仰いで従ってきた主イエスが、今この世を去ろうとしています。弟子たちに、どうしてそれを喜ぶことができるでしょう。◇この地上で最も悲しい出来事は何かと問われたなら、多くの人が、愛する人との別離と答えるでしょう。弟子たちとて同じです。しかも、彼らの夢と希望を裏切るかのごとく、主はパリサイ人や律法学者に捕らえられ、十字架につけられて殺されてしまうというのですから、それを喜ぶはずだと言われても、誰も納得できなかったに違いありません。主イエスの最期は、人の目にはあまりにむごく、絶望的でしかなかったのです。◇しかし、この絶望的な出来事の中に、神の隠された救いのみわざが行われていたのですから驚きです。聖書は次のように伝えています。<主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。>(ローマ4:25)もち論、このことを弟子たちが本当に理解したのはずっと後になってからですが、主イエスの死には、このように、偉大な神の救いのみわざが推し進められていたのです。◇最も悲しい出来事の中に、最も大きな喜びを知る。これが私たちの十字架理解でなければなりません。十字架のむごさ、悲しさから目をそらすものは、十字架の喜びも知ることはできないのです。十字架は、罪の重さを示すと同時に、神の偉大な救いを意味しているからです。主の死を知る者は、主にある生を知るのです。主イエスの死を喜びましょう。この地上の生涯において主が語られたことが、すでに成就したことを私たちは知っているのですから。アーメン。

《主が残された平安》

2010-03-16

  わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。(ヨハネ14:27)

 主イエスは、十字架につけられる前の晩、弟子たちに平安を残すと語られました。考えてみると、これは非常に不思議な約束です。◇というのは、世を去っていく者が平安を残すことはありえないからです。たとえば、世を去っていく親たちのことを考えてみてください。中には莫大な財産を子供に残す人はいるでしょう。しかし、平安を残すことのできる人は一人もいないのです。莫大な財産を残せば経済的には安定するかも知れませんが、それで心の平安が確保できるかと言うと、決してそうではありません。現代はむしろ、経済的にも恵まれている、体の健康の面でも問題はない、それなのに心の不安に押しつぶされている、こんな人がますます多くなっているのです。普通に日常生活を送っている人でも、心の中には、何とも説明のつかない不安を抱えている人は非常に多いのではないでしょうか。◇私たちはまず、聖書に従って、不安の正体が何であるか知っておかねばなりません。ひとことで言ってしまえば、不安とは神の怒りです。私たちは普段はそんなことは意識していませんが、心の奥深いところでは、実に敏感に的確に、神様のみこころを感じ取っているのです。心の中に赦されてない隠された罪があるなら、それが私たちを責めるのです。◇ここに、主イエスの残された平安の意味が浮かび上がって見えてきます。主は、あの十字架の上で私たちの罪の身代わりとなって死んでくださいました。私たちは、罪赦されて、たましいの支配者である絶対者と和らぐことができるのです(ローマ5)。それと同時に、この十字架の贖いを信じる者には聖霊の内住があります(エペソ1:13,14)。人は、そのたましいにどんな霊を宿しているかが問題なのです。

《御霊の教える知恵》

2010-03-16

  ・・・聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます。    (ヨハネ14:26)

 初めて聖書を手にして読んだとき、たいていの人が、何がなんだか解らなかった、という感想を持ったのではないでしょうか。面白い歌が残っています。

    何がなんだか解らねど ああ 有難きかな ちんぷんかんぷん

◇ところがある時から、聖書が解るようになる、みことばが心にひびいて来るようになる。これは、時間的に多少のずれはあるものの、主イエスを自分の救い主として受け入れた時からではないでしょうか。きょうのみことばが明らかにしているように、私たちは、生まれながらにしては、聖書のみことばを理解することすらできないのです。主イエスを信じ、心に聖霊が内住してはじめて理解できるようになるのです。◇このことは、私たちの考えを改めさせてくれるでしょう。というのは、多くの人が、聖書を学んで理解すれば信仰がもてると考えているからです。事実は反対のようです。主イエスの贖いを信じたからみことばが解るようになるのです。聖霊は、みことばを理解する上でも<助け主>なのです。◇12弟子の歩みを辿ってみてください。この地上に主がおられたとき、語られたみことばを、どれだけ理解していたでしょう。彼らの理解は実にこの世的であり、幼稚であったのです。しかし、主イエスが天にお帰りになり、聖霊がお降りになると、彼らの姿は一変します。彼らは、救い主としての主イエスを理解し、神の国を理解し、自分たちの本当の姿さえ分かって来るのです。私たちは、これが聖霊ご自身の知恵であることを無視してはならないのです。

《イエスご自身が現われる》

2010-03-16

  わたしを愛する人はわたしの父に愛され、わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします。」    (ヨハネ14:21)

 ここにも、一人の弟子(イスカリオテでないユダ)の素朴な疑問があったことが記されています。それは、主イエスがどうして世に対してご自分を現わさないのか、というものでした。◇もし主イエスが人々の関心をひきつけて、一大宗教団体を作ろうと考えていたり、世の人々の力を結集して社会改革をしようと考えていたら、もっと積極的に自分を世に現わしていたでしょう。しかし、主は救い主、その使命はひとりひとりのたましいを救うことにあったのです。ですからむしろ、主イエスの歩みをたどって見ると、世から自分を隠しておられる姿さえ見出すのです。◇しかしそれでは、主イエスはだれにも現われてくださらないのでしょうか。そんなことはありません。主はこの箇所で、だれにご自分を現わされるかを明らかになさっておられるのです。主を愛する者、そして主のみことばを守り、それに従う者を主は愛し、その者にご自分を現わされる、と約束しておられます。これは私たちが心しなければならない点ではないでしょうか。◇なぜ主イエスの現われを受けられないか、このみことばに従って考えてみましょう。まず最初に考えられる理由は、主を愛してないことです。愛がなければ、私たちは主と向き合うことすらないのです。さらに、気持ちの上では主を愛していても、その生き方において主のみことばを守っていなければ、やはり主は現われてはくださらないでしょう。主は、わたしを愛しているならわたしのことばを守るはずだとくりかえし語っておられます。私たちが、これらの点を本気で悔い改めるなら、主は今でも私たちに現われてくださるのです。

《富と信仰》

2010-03-15

  金持ちが神の国にはいるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしい。」  (ルカ18:25)

 この富める青年は、救い主を目の前にしながら、悲しみのうちに去っていきました。きょうのみことばは、その後で主が弟子たちに語られたものです。◇このみことばが私たちに教えてくれるひとつの事実は、富が信仰の妨げになってしまうことがある、ということです。特にこの青年のように、それを捨てなければ救われないと考えた場合は、信仰をもつことは非常に難しくなるでしょう。富を取るか信仰を取るかという二者択一の狭間に立たなければならないからです。主イエスは、金持ちが救われるよりは、らくだが針の穴を通るほうがもっとやさしいと語られました。やはり、お金はこの地上では最も魅力あるもののひとつでしょう。◇しかし、それでは金持ちは救われることができないのでしょうか。「それでは、だれが救われることができるでしょう。」(26)という人々の疑問は、至極当然に起こってくる疑問でしょう。しかしそれに対して、主イエスは「人にはできないことが、神にはできるのです。」とお答えになりました。神様が働かられれば、らくだが針の穴を通るようなことが起こると言われるのです。実際にこの青年も、「全財産を捨てなければ・・・。」などと考えないで、素直に自分の罪を認め、あわれみを乞うたなら救われたのです。◇救いは神様のなさることです。救われるために人にできることは何もないのです。信仰とは自分で何かをすることではありません。救い主と、救い主がなしてくださったみわざに依り頼むことです。もし財産を捨てれば救われるということなら、救いはお金で買えることになってしまうでしょう。「信仰による救い」という聖書の教えを、決して他のものに置き換えてはならないのです。アーメン。

《欠けているものとは?》

2010-03-15

  イエスはこれを聞いて,その人に言われた。「あなたには、まだ一つだけ欠けたものがあります。  (ルカ18:22)

 誰にでも一つや二つ欠けはあるものですが、この青年の欠けとは何だったのでしょう。◇まず、よく分かる主イエスのみことばの表面的な意味に目を留めましょう(22)。これは単に、貧しい人を顧みなさい、という命令ではありません。注意しなければならないのは、主イエスが<あなたの持ち物を全部売り払い>と言っておられる点です。財産を全部貧しい人々に与えてしまうということは、自分は無一文になるということです。その上で<わたしについてきなさい。>と主は言われたのです。即ち主は、この青年に伝道者への献身を求められたのです。<たいへんな金持ち>であった彼にとって、これは予想だにしてないことでした。<すると彼は、これを聞いて、非常に悲しんだ。>(22)とあります。そんなことはとてもできないと直感したからです。◇しかし、主イエスの本当の意図はここにあったのではないでしょうか。「そのようなことはみな、小さい時から守っております。」(21)と言い切った彼に、真実はとてもそう言い切れるものではない、自分は貧しい人々を顧みることすらできてない、否、そうしようと思っても財産を捨てることはとてもできない。こういう自分中心にしか生きられない罪の姿を自覚させようとしておられるのです。実はこれが、この青年の欠けであったわけです。◇この青年は<これを聞いて、非常に悲しんだ。>とあります。しかし、大切なことはここから始まるのではないでしょうか。どうして「主よ。私にはそれはできません。私は罪深い者です。どうかこの私を赦してください。」と言えないのでしょうか。主が求めておられるのは、悔い改めと信仰なのです。 アーメン。

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