浦和聖書バプテスト教会

4月, 2010年

《不変なるもの》

2010-04-30

  私は知った。神のなさることはみな永遠に変わらないことを。 ・・・略・・・ 人は神を恐れなければならない。  (伝道者の書3:14)

 

 ソロモンが語ったこの一連の聖句には、この世の中には、時とともに移り変わっていくものとそうでないものとがあることが示されています。◇しかし、一般的には、人々は移り変わっていくものには敏感に反応しますが、不変なるものにはほとんど気にも留めてないのではないでしょうか。<神はまた、人の心に永遠への思いを与えられた。>(11)とありますように、人間には本来、不変なるもの、永遠なるものに心を向ける資質がそなえられているのです。しかし、現実には、そういう心の働きを用いて自分の人生を築き上げている人は本当に少ないと言わねばなりません。私たちの日常は、どうしても目先のこと、一時的なこと、この地上のことに心を奪われてしまうのです。◇もし私たちが、少しでも不変なるものに心を向けることができるなら、もっと神様のなさることを発見できるでしょう。<私は知った。>とありますように、この地上の全ては、神のなされる永遠に変わらないことによって成り立っているのです。私たちは、これを見極め、神を恐れて生きて行かねばなりません。パウロという人も次のように語っています。<私たちは、見えるものにではなく、見えないものにこそ目を留めます。見えるものは一時的であり、見えないものはいつまでも続くからです。>(コリントⅡ4:18) ◇このことは、何も深遠な哲学でも特別に神秘的なことでもありません。ソロモンは<食べたり飲んだり>する極めて日常的な事柄の中に<神の賜物>があることに気づいたのです(13)。<すべての営みに時がある>(Ⅰ)ように、誰もが送っている日常的な事柄の中に、不変なるもの、永遠なるものがあるのです。

《罪とその悔い改め》

2010-04-25

 自分のそむきの罪を隠す者は成功しない。それを告白して、それを捨てる者はあわれみを受ける。 (箴言28:13)

 

この短い聖句には、現代私たちが最も必要としていることが的確に示されています。それは、隠されている罪の解決です。◇先ず、隠されている罪がどんなに私たちを蝕んでいるか、その現実に目を向けねばなりません。個人から始まって様々な団体、果ては国家に至るまで、隠された罪が私たちを不成功に終わらせているのです。それが罪に対する神の怒りの現われだからです。もし全能で愛の神がおられるなら、私たち人間の罪をあやふやに終わらせるはずがありません。◇では、この隠された罪をどのように解決したらよいのでしょう。<それを告白して、それを捨てる>ことです。これが悔い改めであり、ここにこそ主イエス・キリストの十字架の秘儀があるのです(Ⅰヨハネ 1:8~10)。告白することと捨てることが真の十字架です。告白だけではありません。主イエスは十字架にいのちを捨てられたからです。そして覚えなければならないことは、この悔い改めは私たちに課せられた義務であるということです。神の前にしなければならないことなのです。これを拒むことが<心をかたくなにする>(14)ことなのです。◇この悔い改めをなした時、何が変わるのでしょう。神の<あわれみを受ける>のです。「成功する」と言われてないことに注意しなければなりません。神のあわれみを受けることは、成功することよりもっと大切なことだからです。根本的な原因は、根本的な解決を見なければなりません。それが、神のあわれみを受けることなのです。今、改めて、自分の在り様を吟味しなければなりません。

《自分をみがく》

2010-04-22

  もし斧が鈍くなったとき、その刃をとがないと、もっと力がいる。 (伝道者の書10:10)   

 まず、どうして斧が鈍くなるのかを考えておきましょう。長いこと使っていれば、どんなに精巧な斧でも刃がこぼれて鈍くなります。また、長いこと使っていなければ、錆びついて、やはり鈍くなります。◇いずれにしろ、鈍くなった斧は、そのままでは余計な労力を払わなければなりません。実は、多くの人が、ここに問題を抱えているのです。一生懸命力を尽くしているのに、その労苦の割には成果が生まれない。斧が鈍くなっていることに気づいていないのです。そして「こんなに努力してるのに、神様はなぜ祝福をくださらないのだろう。」と訝しがってしまうのです。人生は真面目に努力していればそれでよい、というような単純なものではありません。鈍くなった斧で力を尽くすがゆえに、かえって疲れ切ってしまうというようなこともあるのです。◇鈍くなった斧は、その刃をとがねばなりません。しかし残念なことに、斧は自分で自分をとぐことはできません。ここに、信仰をもつことの重要な意味があるのです。斧を手に握って用いる方がおられるのです。このお方こそ、斧の真実な状態を知っていてくださいます。刃がこぼれているのか、錆びてしまったのか、あるいは他に原因があるのか。ひとつひとつの斧にふさわしく、その刃をといでくださるのです。◇自分を神様のお取り扱いに任せましょう。斧が自己主張をして「ああしろ。こうしろ。」と、斧を握る者に指図することがあっていいでしょうか(イザヤ10:15)。それは人が神様を動かすことです。斧がその鈍さのゆえに、かえって高ぶりに陥ることもあるのです。信仰とは、自分の全てを全能なる神様にゆだねることです。<あなたの重荷を主にゆだねよ。主は、あなたのことを心配してくださる。>(詩篇55:22)

《モーセの十戒》

2010-04-20

  あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。  (出エジプト20:3)  

 出エジプト記20章には、有名な「モーセの十戒」が記されています。これは、神様がモーセを通して与えられた10の戒めで、昔から普遍律法と言われています。◇まずどんな内容の戒めかと言うと、前半の4つは(v3・4・7・8)神様と私たち人間の関係を規定した戒めで、後半の6つは(v12・13・14・15・16・17)人と人との関係を規定したものであることが分かります。これらの戒めを守って生きるところに、私たちの本物の人生があると神様は伝えておられるわけですが、お分かりのように、神様との関係を縦の関係、人と人との関係を横の関係と考えれば、本物の人生は十字架のクロスしたところにあると言うことができます。◇ところが現代の人々は、前半はまったく無視、後半もだんだん守らなくてもよいと考えるようになって来ているのではないでしょうか。<父母を敬え。>とか<殺してはならない。>とか<姦淫してはならない。>等は、もうどうでもよいようです。みんなが自分の好き勝手な生活を送っているのです。これは、当然と言えば当然です。人は縦の関係を失ったとき、横の関係をどこに位置づけたらよいか分からなくなってしまったのです。聖書の伝える罪人の姿とは、このように、神様との関係を失った人間の姿を指しているのです。◇こういう時代風潮の中にあって、私たちは何よりもまず、神様のもとに立ち返らなければならないのです。<あなたには、わたしのほかに、ほかの神々があってはならない。> これは単に他の宗教を禁じているのではありません。この世界の創造者であり支配者であられる唯一の絶対主権者を神とせよと命じているのです。私たちは、どんなお方を自分の神としてるでしょうか。

《クオヴァデス ドミネ》

2010-04-19

  シモン・ペテロがイエスに言った。「主よ。どこにおいでになるのですか。」 (ヨハネ13:36)

 ここには、ペテロと主イエスとの個人的なやりとりが記されています。ペテロにとっては、互いに愛し合うことよりも、どうも33節の主のことばが気にかかっていたようです。◇このやりとりでまず教えられることは、主はペテロの現在の姿を全部ご存知であられたということです。<あなたは今はついて来ることができません。>それどころか、<鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います。> これは、ペテロの心意気を削ぐようなことばですが、真実です。主はペテロの真実な姿を、ペテロ本人よりもよく知っていてくださったのです。その上で彼をみちびいておられるのです。◇そればかりではありません。主はペテロの今後さえも全て見通しておられるのです。<しかし後にはついて来ます。>本当にあなたは、わたしのためにいのちを捨てることになります。事実はその通りになっていったことを私たちは知っています。ペテロの最期は、ローマで逆さ十字架だったと言い伝えられています。今はついて行くことができないが、後にはついて行くことができる。これが主の取り扱いであり、私たちの希望なのです。◇クオヴァデスの言い伝えは、信仰の真髄をよく物語っているのではないでしょうか。この時は三度も主を否んだ弱いペテロが、再び「主よ。どこにおいでになるのですか。」と尋ねる時を迎えるのです。そしてその時は、今度は主とともに迫害の真っ只中にあるローマに帰っていくのです。私たちはどうでしょうか。「主よ。ローマに行って迫害の中にあるクリスチャンたちを助けてあげてください。私は逃げますから。」 こうでないことを祈るだけです。

《復活の主がともに歩まれる》

2010-04-18

  ・・・イエスご自身が近づいて、彼らとともに道を歩いておられた。  (ルカ24:15)

 人生を旅にたとえれば、クリスチャン人生は復活の主とともに歩む人生です。そうでなければなりません。◇ところが現実はなかなかそうなりません。v16を見ると<しかしふたりの目はさえぎられていて、イエスだとはわからなかった。>とあります。何故彼らが、主イエスとともに歩んでいるのに主イエスだと気付かなかったのでしょう。いろいろ理由を挙げることが出来るでしょうが、突き詰めれば、実はその理由はひとつです。復活の主を信じることが出来ないでいたからなのです。彼らも<生きている方を死人の中で捜していた>(5)のです。◇この盲目の彼らが、どのような過程を経て主イエスに気付いて行ったか、非常に興味深い観点です。まず主は、彼ら自らの口を通して起こった事実を確認させています(17~24)。主は黙ってそれを聞いておられたのです。はじめから「わたしがそのイエスです」と身を明かさないのです。彼らがみずから気付くようになるためです。次に主は、彼らをみことばにみちびかれます(25~27)。聖書の預言のことばが、彼らが経験した事実と結びつくためです。しかし残念ながら、それでもまだ彼らは気付きません。まさに<愚かな人たち><心の鈍い人たち>なのです。そこで主は最後の手段に出ます(30,31)。ここで、ふたりの心の中に何が起こっているか、見逃してはなりません。三日前の晩の主イエスの御姿が(22:15~)が現在形で示されたのです。実に感動的な場面です。◇<目が開かれる>とは、こいうことではないでしょうか。彼らはもはや、主の復活を疑うことすら出来なくなっているのです(31b)。そればかりではありません。復活の主を知った彼らは、大きな感動とともに、心の新たな力に動かされているのです(33~35)。ハレルヤ。

《互いに愛すること》

2010-04-15

  あなたがたに新しい戒めを与えましょう。あなたがたは互いに愛し合いなさい。(ヨハネ13:34)

 裏切り者ユダは外に出て行きました。もうすぐ、主イエスを捕らえるために、人々の手引きをしてもどって来ます。こういう緊迫した時間の中で、主はこの新しい戒めを与えられたのです。◇まず、この<新しい>ということに注意しましょう。互いに愛し合うことは、これまでにも何度も教えて来られた戒めです。しかし主は、これを新しい戒めとして与えられたのです。ですから、この<新しい>は、「ここで初めて聞く」という意味での新しいではありません。要するに、この戒めを古びたものにしてしまったり、心のどこかに忘れ去ってしまったりしてはならないということです。愛することは、頭で分かっていても、絶えず意識して取り組んでいかないとすぐ古びてしまうのです。◇次に、この戒めの標準の高さを覚えましょう。主は<わたしがあなたがたを愛したように、そのように>と言われます。これは何も、これまで主が弟子たちに示してきた愛だけを意味していません。翌日、主は彼らをあがなうため、十字架にご自分のいのちを犠牲にされます。<ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです。>(ヨハネⅠ3:16)後にヨハネはこのように勧めています。プライドひとつ捨てられないでいる自分の姿を思い知らされます。◇最後に、互いに愛し合うことが、キリストの弟子であることのしるしとなる、と主が告げておられることを覚えましょう(35)。この点でも、後にヨハネは次のように語っています。<もし私たちが互いに愛し合うなら、神は私たちのうちにおられ、神の愛が私たちのうちに全うされるのです。>(ヨハネⅠ4:12) 神は愛ですから、やはり愛の中に臨在なさるのです。アーメン。

《神の時を生きる》

2010-04-14

  ユダが出て行ったとき、イエスは言われた。「今こそ人の子は栄光を受けました。 (ヨハネ13:31)

 きょうのみことばは、ユダの裏切りが決行に移された直後に主イエスが語られたみことばです。いろんなことを考えさせられます。◇まず何よりも、人間の側の裏切りという最も卑劣な行為が、神の栄光の時となっていることです。もち論このことは、主イエス以外はこの地上のだれも知ることができません。残された11人の弟子たちも、「何が栄光なのか。」と首をかしげたことでしょう。神の栄光らしきものは、未だ何も現わされていないのです。それどころか、これからの時間は、神の栄光が人間の罪の力によって無惨に破壊されていく出来事が次々と生じていきます。そしてその頂点が、主イエスの十字架の死なのです。◇しかし主イエスは「・・・受けました。」と過去形で語られます。これは、ギリシャ語の文法上では「未来を現わす過去形」として扱われ、あいまいさのない神の確実な未来を意味していますが、私たちは、とてもそれだけで片付ける訳にはいきません。地上では何も見えませんが、神の時が流れているのです。御国の計画が着々と進められているのです。地上では卑劣な裏切り行為が始まっているのに、天の御国では、栄光授与式が始まっているのです。ハレルヤ。◇信仰とは、この天の時間を信じることではないでしょうか(ヘブル11:1)。そしてクリスチャンとは、この天の時間を生きる者ではないでしょうか。もし私たちが、ユダの裏切りを見て失望してるだけなら、それは神様ご自身に失望してることになるのです。私たちは、ユダの裏切りをしっかり見据えた上で、そこに神の栄光を見る者でなければなりません。「今こそ、私の人生はあなたの栄光を受けました。」と・・・

《主イエスの赦しと救い》 

2010-04-13

 

  そこで、イエスは言われた。「わたしもあなたを罪に定めない。行きなさい。今からは決して罪を犯してはなりません。」     (ヨハネ8:11)

 姦淫の現場で捕らえられたひとりの女性が主イエスのもとに連れて来られました。ユダヤの律法によれば、このような罪を犯した者は、石打の刑で殺されねばなりませんでした(レビ20:10)。◇まず、主イエスがどのようにして彼女を救い出されたかを見てみましょう。主は決して多くを語りませんでした。彼女を訴える者たちに向かって、ひと言「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」と言われただけでした。しかし、このことばを聞くと、訴える者たちは、年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行ったとあります。何が起こったのでしょう。◇私たちは少なくとも、この主のみことばが「あなたがたには彼女をさばく資格があるのですか。」と問いかけていることには気づかねばなりません。罪のない者がはじめて他人の罪をさばくことが出来るのです。彼女を訴えた者たちには、彼女の罪のことはどうでもよく、本当はイエスを訴える口実を作り出そうという魂胆があったわけですから(6)、表側の正義は見せ掛けだけで、心には非常に不純な思いがあったのです。主イエスのみことばは、それをえぐり出したと言えるでしょう。◇ひとり残された彼女は、この経緯をどのような思いで見ていたでしょう。殺されるかもしれないという死の恐怖から解放されて、彼女は今、主イエスとともにいるのです。ここでも主イエスは多くを語りません。「わたしもあなたを罪に定めません。」これは罪の赦しの宣言です。彼女は罪の裁き(死)から救われ、赦されているのです。ハレルヤ。私たちに必要なのは、この赦しと救いではないでしょうか。

《イスカリオテ・ユダ》

2010-04-12

  ユダは、パン切れを受けるとすぐ、外に出て行った。すでに夜であった。 (ヨハネ13:30)   

 主イエスがユダを弟子のひとりに加えていたのも不思議なことですが、ユダにはユダの考えがあったようです。多くの人が想像しているように、彼はイエスを政治的な救い主と考えていたようです。◇当時のイスラエルは、ローマ帝国の圧政に悩み苦しんでいました。自国を愛する者ならだれでも、ローマの支配からイスラエルを解放してくれるメシアを求めていたのです。ユダもイエスにそのような期待を寄せる者のひとりだったのでしょう。ところが、そのイエスが人々の手に捕らえられ殺されてしまうというのですから、彼の失望は並々ならぬものだったのでしょう。ですから彼の裏切りは、主イエスに寄せる期待の最期の切り札だったのかも知れません。◇もち論、このようなメシア観は人間の側で勝手にこしらえたものですが、今日でもこのように考える傾向はあるのです。否、他の11人の弟子たちでさえ、そのように考えていた節さえあります。人は自分の苦しみに相当するメシアを考えてしまうのです。私たちは、ユダの心の中に「イエスに裏切られた。」という思いがあったことを無視することは出来ません。自分のメシア観を押し通す者は、やがて失望しなければならないのです。◇主イエスはユダに「あなたがしようとしていることを、今すぐしなさい。」と言われました。ユダはこのことばを聞いて、どんな気持ちで外に出て行ったのでしょう。今すぐとは、すでに自分の考えを実行に移す時が来たことを意味しています。主イエスの時とユダの時とが一致したのです。これが十字架の時なのです。救い主を裏切る時が、同時に救いが実現される時になっているのです。ハレルヤ。

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