浦和聖書バプテスト教会

5月, 2010年

《祝福を失う理由》(2)

2010-05-23

「お父さん。祝福は一つしかないのですか。お父さん。私を、私をも祝福してください。」エソウは声をあげて泣いた。   (創世記27:38)

 祝福を失う理由は、突き詰めれば一つしかありません。神の御心に従わないからです。◇それにしても、イサクは何故ヤコブへの祝福を取り消さなかったのでしょう。今日では考えられないことです。ヤコブは父イサクを欺いて兄エソウの祝福を横取りしてしまったのですから。詐欺のある約束は無効にすべきです。そして正しい祝福をやり直すべきでしょう。しかし父イサクはそうしませんでした。<身震い>するほど驚いているのに(33)、だまされてなしてしまった祝福をそのままに認めているのです。◇その理由は一つしか考えられません。こうなることが神の御旨であることを知っていたからなのです(25:23)。親としての自分の愛や希望ではなく、神の御旨だけがなっていくことを、イサクは欺かれることによって改めて知ったのです(39,40)。◇しかし私たちは、こうなって行く経緯には、エソウの現実の歩みが裏づけになっていることを見逃してはなりません。ヘブル書12:14~17。神はすべてを見通しておられたのです。エソウには、神を求める者に不可欠な聖さが欠けていました。かえって<俗悪>な生き方で満ちていたのです。彼は長子として生まれたのに、その俗悪さのゆえに、この生まれながらの恵みをまったく意識しませんでした。軽蔑したのです(25:32)。与えられている神の恵みを軽んじる者にどうして次の祝福が続くでしょう。今与えられている恵みは、将来受ける恵みの礎としなければならないのです。◇しかし同時に、祝福を欺き取ったヤコブも、その罪の故に、多くの苦しみを経験しなければなりませんでした。この点も忘れてはならないでしょう。ヤコブはヤコブで、違った意味で祝福を失っているのです。

《祝福を失う理由》(1)

2010-05-23

 サムエルはサウルに言った。「あなたは愚かなことをしたものだ。あなたの神、主が命じた命令を守らなかった。  (Ⅰサムエル記13:13)

 説教者としては、あまり取り上げたくないテーマです。しかし、あまりにもリアルな現実です。目を閉じているわけには行きません。◇まず、サウルには主に従わなくてもよいと思える合理的な理由があったことに注目しなければなりません。ペリシテとの戦いが今にも始まろうとしていたのです。この戦いが始まる前に、何としても主に嘆願しなければなりません。しかし、その礼拝を行うはずのサムエルは約束の日に到着しませんでした。サウルは7日間も待ったのです(8)。それでもサムエルは来ませんでした。仕方なくサウルは、自分で<全焼のいけにえをささげた>のでした(9)。しかしこれが、致命的に<愚かなこと>だったのです。◇考えさせられます。真っ向から主の命に背く人は別として、私たちも主の命に従えないときには「それなりの理由」があるものです。そして、私の心の中の信仰者は、その時「仕方ない」とつぶやくのです。「仕方ない」は、私たちの行為を正当化し、従って心の中から罪意識を消し去ってくれるのです。サウルの姿に、自己正当化と罪意識の欠如があることを見逃してはなりません。そして、この在り方が、祝福を失う理由となっているのです(14)。◇どんな合理的理由があろうと、主の命に背くことは罪なのです。私たちに大切なのは、それが罪であることを認めて悔い改めに向かう姿勢ではないでしょうか。これが欠けていることが一番の問題なのです。クリスチャンの世界だけでなく、この世界のあらゆる所に自己正当化と罪意識の欠如の姿があります。私たちは、この在り方こそ神の祝福を失う根本的な理由であることを決して忘れてはなりません。特に、神を信じる者は。

《主がともにおられるとは》

2010-05-09

見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます。」 (マタイ28:20)

 天の御国に帰られる時に、主イエスが残された最後のことばです。私たちは、このみことばをどのように受け止めたらよいのでしょう。◇これはよく世の葬儀の場で言われているような、主イエスの思い出が心に残ると言うような意味では決してありません。単なる思い出であるなら、それはやがて薄れ、消え去り、忘れ去られてしまうでしょう。もち論主イエスの姿はこの地上では見られなくなりましたが、これは確かに、目に見えないある事実を意味しているのです。信仰生活とは、主イエスの思い出に従って生きる生活ではなく、主イエスとともに生きる生活なのです。主が、今、ともにおられるのです。◇他の福音書も参照して、簡単に事の経緯を確認してみましょう。先ずヨハネ福音書14章を見てみますと、主は、ご自分が天に帰られた後に<もうひとりの助け主>即ち<真理の御霊>を遣わされる、と語っておられます。弟子たちは、聖霊を受ける必要があったのです。ですから、聖霊がおくだりになるまで、主は、弟子たちに都(エルサレム)にとどまるよう命じておられます(ルカ24:49)。この約束の聖霊がおくだりになったのが、使徒2章のペンテコステの出来事です。十字架から数えて50日目に当たります。◇私たちは、この歴史的経緯を無視することは出来ません。主イエスがともにいてくださるとは、この聖霊なる神が信仰者の心に内住してくださる、ということなのです。聖書は次のように語ります。<キリストの御霊を持たない人は、キリストのものではありません。>(ローマ8:9) またⅠコリント6:19.ここでは<・・・知らないのですか。>と問いかけられています。実際に御霊の内住を知らないで生きている人が多いのではないでしょうか。

《信仰が問われる》

2010-05-02

 イエスは彼らに「あなたがたの信仰はどこにあるのです」と言われた。   (ルカ8:25)

 予測だにできない突然の出来事に襲われたとき、私たちに最も必要なものは何なのでしょう。この物語の中のイエスの弟子たちの姿に、私たちはそれを見る思いがします。◇おだやかなガリラヤ湖の舟旅を突然嵐が襲ってきました。たちまち彼らは死の危険にさらされてしまったのです。恐ろしい自然の驚異に対して、彼らは、赤子のようになす術を知りません。ただ慌てふためき、平安を失い、冷静さを失ってしまったのです。「先生。先生。私たちはおぼれて死にそうです。」弟子たちの悲鳴です。◇こういう弟子たちの姿に、私たちは自分の人生を重ねて見ざるを得ません。誰もが、長い人生の中で一度や二度はこんな危機的な状況を通らせられるからです。しかし、弟子たちの姿に共感を覚えてばかりではいられません。なぎになった後で、主イエスが「あなたがたの信仰はどこにあるのです」と叱責じみた問いかけをしておられるからです。主イエスは、一連の弟子たちの動向に信仰者としてふさわしくない姿を見られたのです。それは決して、突風を鎮める力がなかったことを責めているのではありません。主は弟子たちの心の在り様を、即ち信仰をご覧になっていたのです。◇旧約聖書イザヤ書のみことばを想い起します。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」(30:15)。信仰は、何かをすること以上に心の問題です。慌てふためき、平安と冷静さを失ってしまった弟子たちを主イエスは諌めておられるのです。私たちの舟には、嵐をひとことで鎮めることの出来るお方がともにいてくださるのです。このお方に静かな揺るぎない信頼を寄せることです。そうすれば私たちは<救われ><力を得る>のです。

《よみがえりの奇跡》

2010-05-01

  神は、ご自分の大きなあわれみのゆえに、イエス・キリストが死者の中からよみがえられたことによって、私たちを新しく生まれさせて、生ける望みを持つようにしてくださいました。 (ペテロⅠ1:3)

 きょうのこのみことばは、主イエスのよみがえりと私たちが新しく生まれ変わることとが、切っても切れない関係を持っていることを明らかにしています。◇この関係を合理的に説明することはなかなか出来ないことですが、私たちは、主イエスによって新しく生まれ変わった人たちが一様に主イエスのよみがえりを信じていることは確認することができます。即ち、新しく生まれ変わっている人で、主イエスのよみがえりを信じていない人はひとりもいないということです。もっと言い換えれば、人は新しく生まれ変わるためには、どうしてもイエス・キリストのよみがえりを信じなければならないのです。◇なぜならば、<主イエスは、私たちの罪のために死に渡され、私たちが義と認められるために、よみがえられたからです。>(ローマ4:25)。天の神様は、御子を死者の中からよみがえらせることによって、私たちの罪に対する完全な勝利を明らかにされたのです。ですから、よみがえりは二重の意味において神の奇跡なのです。ひとつは御子において、もうひとつは、よみがえりを信じる私たちの新生の恵みにおいてです。◇私たちは、新しく生まれなければなりません。人は、新しく生まれなければ、神の国を見ることはできないからです(ヨハネ3:3)。しかし私たちは、どうしたら自分を新しく生まれ変わらせることができるのでしょう。それは人にはできないことです。主イエスのよみがえりを信じること以外に、新生の可能性はないのです。<だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。>(コリントⅡ5:17)アーメン。


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