浦和聖書バプテスト教会

6月, 2010年

《本物の人生への出発》

2010-06-13

ところが、青年はこのことばを聞くと、悲しんで去って行った。  (マタイ19:22)

 悲しみだけを抱えて、この青年は救い主に背を向けて去っていきました。どう思われるでしょうか。◇彼は決して、ひやかし半分で主イエスのもとにやってきたのではありません。真剣に救いを求めていたのです(16)。しかし、彼の考えも一般の人々と同じでした。<何をしたら>(マルコ10:17)でした。それに対して主イエスは、<良い方>(人格)をお示しになるのです。救いは<良いこと>にあるのではなく、<よい方>(神)によって与えられるのです。続けて示されている十戒(五戒~九戒)を守ることにおいても、人格をお持ちの神様との交わりを欠いていたら何の意味もないのです。◇おもしろいことに気がつきます。主イエスが第十戒「むさぼるな」を挙げていない点です。理由は明らかです。この青年は<たいへんな金持ちだった>(ルカ18:23)ので、自分の心の中にむさぼりがあるということにさえ気付かないで済んできたのでしょう。加えてマタイは、主イエスの<あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ>を省いていません。このみことばを前にして「私にはこれが守れている」と言える人はいないでしょう(マタイ22:34~40)。ところがこの青年は、何のけれんみもなく「そのようなことはみな、守っております」(20)と言ってのけるのです。◇まったく自分の真実な姿が見えていません。彼は、あまりに恵まれすぎていて、自分の罪の姿を知らないのです。これは偽りの人生ではないでしょうか。主イエスが敢えて「全財産を貧しい人々に・・・」(21)と命じられた真意がここにあるのです。彼は、生まれて初めて、自分の悲しみ(罪)に直面させられたのです。しかし、ここから、まさにここから、本物の人生が始まるのではないでしょうか。マタイ5:4。

《信仰という神の知恵》

2010-06-06

  それゆえ、神はみこころによって、宣教のことばの愚かさを通して、信じる者を救おうと定められたのです。 (Ⅰコリント1:21)

 信じる者を救う。これが神様の定められた救いの方法であり、そこには神の知恵があると語られています。◇まず最初に、神の公平さという観点からこのことを考えてみましょう。信じる心は、ひとりひとりに平等に与えられている賜物です。間違いなく、人間に与えられている賜物で最も平等なものです。それは、他の賜物と比べてみたらよく分かります。他の賜物では必ず不公平が生じてしまいます。即ち、救いを受けたくても受けられない人が出てしまうのです。神様はすべての人を救うために、すべての人に平等に与えられている「信じる心」を用いることに定めたのです。◇しかも、信じることには代理は利きません。信じるか、信じないかは、自分の心で自分が決定しなければならないのです。これは人間の尊厳の一つ、自由意志という賜物です。即ち、私たちは、誰かに代わって信じてもらうことも、誰かに代わって信じてあげることも出来ないのです。どんなに親しい間柄であってもです。そういう意味では、やはり信仰は個人的なものと言わねばなりません。◇さらに最後に覚えなければならないことは、信じるということには何の犠牲も労苦も必要ないという点です。ありのままの自分がそのままで出来ることなのです。これも神の知恵であり、愛です。神様は私たちを救うために何の条件も設けなかったのです。信じることは、今あるがままで、今すぐ出来ることなのです。「あれをクリアしなければ・・・」とか「これを片付けてから・・・」とか考えてしまうのは、みんな人間がしていることなのです。私たちは、こういう神様の無条件の愛に先ず応答しなければならないのではないでしょうか。


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