浦和聖書バプテスト教会

7月, 2010年

《私を助けてくれる神》

2010-07-25

 ですから、私たちは・・・・おりにかなった助けを受けるために、大胆に恵みの御座に近づこうではありませんか。 (ヘブル4:16)

 この箇所には、私たちの主が、私たちの実際の生活にどのように関わっていてくださるかが分かりやすく説き明かされています。◇まずv15。主イエスは、私たちの弱さに同情できない方ではない、と告げられています。私たちは何か問題にぶつかった時など特に弱さを覚えます。そして、そんな時はたいてい孤独です。しかし、私たちの主は、起こっている問題も、私の弱さも、すべて知っていてくださるのです。そして、心を寄せて心配してくださっているのです(詩55:22)。しかも主の同情は真実です。ご自分が同じ試みを経験しておられるからです。十字架の苦しみを経験した主が、どうして私の小さな苦しみを理解できないことがありましょうか。主イエスは、私たちの苦しみに真実の同情を寄せることが出来る救い主なのです。◇しかも、同情だけで何もしてくれないのではありません。<おりにかなった助け>を下さるのです(16)。<おりにかなった>とは「その時その時にちょうどよい具合の・・・」といった意味です。多くのクリスチャンが、このような主の現実の助けを積み重ねて今日に到っているのではないでしょうか。十字架に自分のいのちを犠牲にしてまでして私たちに永遠の救いを賦与してくださった方が、どうして私たちに日常的な助けをくださらないことがありましょうか。◇ヘブル書著者は、このような救い主がおられるのだから、大胆に恵みの御座に近づこうではないかと勧めています。現実的、日常的な事柄においても主の助けを求めてよいのです。しかもそれを大胆になしてよいのです。この点で私たちは、まだまだ遠慮がちなのではないでしょうか。

《私に関係ない災いなのに》

2010-07-18

  わたしはあなたがたに言います。あなたがたも悔い改めないなら、みな同じように滅びます。(ルカ13:3)

 ここで主イエスが求められた悔い改めは、私たちには何と不合理に感じられることでしょうか。私が原因で起こった災いではないからです。◇私たちは災いに遭った時には、それをたいてい因果関係で捉えます。原因(罪)があって結果(災い)が生じたと。報告者たちもそう考えていたようです。確かに、現実に目を向けると、多くの出来事は、人為的なものであろうと自然発生的なものであろうと、原因があります。大雨が降って山崩れが起こり、わき見運転をして交通事故が発生するのです。主イエスは、こういった見方をまったく否定しているのではありません。◇主イエスの<そうではない。>ということばの真意を探らねばなりません。主は、こういう見方をしたとき起こってくる心の在り様を問題にしているのです。こういう見方をしてしまうと、災いに遭った人たちは重い罪を犯した人で、災いを免れた私たちはそんなに罪を犯していない者たち、と言うことになります。災難を受けた人に対してこういう見方をしてることが一番問題なのです。これこそパリサイ人なのです(ルカ18:9~14)。◇さらに、自分に直接的な原因(自分の罪)がないわけですから、悔い改める必要もないわけです。他人の罪を悔い改めることは出来ません。悔い改めは自分の罪になされるものです。ここに、悔い改める必要のない立派な人(?)が生まれてしまうのです。しかし、これは偽善です。なぜなら、神の前に悔い改める必要のない人はひとりもいないからです(ローマ3:23)。私たちは、自分をごまかすことなく、勇気を持って自分の真実な姿(自分の罪)に向かい合わねばなりません。この姿勢こそ、ここで主イエスが求められた悔い改めなのです。

《悔い改めという特権》

2010-07-04

「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために・・・。そうすれば、賜物して聖霊を受けるでしょう。   (使徒2:38)

 悔い改めというと、何か強制的な嫌な感じを持つ人もおられるでしょうが、実はこれほど大きな祝福はないのです。◇先ず、悔い改めによってのみ罪の赦しが与えられます。ペテロの言い方はちょっと誤解されやすいですが、罪の赦しはバプテスマによって与えられるのではありません。悔い改めなのです。悔い改めて罪が赦された者が、そのあかしとしてバプテスマを受けるのです。重要なことは、常に目に見えない魂の世界で行われています。ダビデも、罪が赦されていることの幸いを見事に詠い上げています(詩32:1,2)。◇次に、罪赦された人は<賜物として聖霊を受ける>というつながりです。これは、現代のクリスチャンたちが抱えている最も今日的な課題なのかも知れません。使徒1:8を見ますと、昇天直前の主イエスのみことばが記されています。ここには、私たちクリスチャンの力は聖霊によって与えられると明言されています。逆説的に言い換えれば、罪を隠し持ったままでいると、私たちは力のない者になってしまうのです。この点でもダビデの告白は真実を告げているのではないでしょうか(詩32:3,4)。クリスチャンが罪を隠し持っていることほど悲劇的なことはないのです。◇最後に、悔い改めが誰に与えられているかを確認しましょう。v39です。<この約束>と言われています。もち論、神ご自身の約束です。私たちに当てはまるのは<遠くにいる人々>でしょう。私たちは、神の救いから何と遠くにいたことでしょう。しかし同時に、この人々は<主がお召しになる人々>なのです。改めて、主の特別な愛を覚えないわけにはいきません。悔い改めは、私たち教会人に与えられた特権なのです。ハレルヤ。


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