浦和聖書バプテスト教会

9月, 2010年

《神のかたちに似せて》

2010-09-26

  神は仰せられた。「さあ人を造ろう。われわれのかたちとして、われわれに似せて。(創世記1:26)

人は神のかたちに似せて造られました。もち論神様は霊的な存在ですから(ヨハネ4:24)、目に見える姿、容貌ではありません。人格的な心のかたちです。◇しかしながら、現在、自分の内に、この神のかたちをどれほど見出すことが出来るでしょうか。時代の経緯とともに、人はますます神のかたちを失ってしまっているのではないでしょうか。たとえば「きよさ」という点で考えてみてください。現代は恐ろしい時代です。何がきよくて何が汚れているかという判別はもうほとんど無くなってしまいました。最も失われてしまった神のかたち、それが「きよさ」でしょう。人も世も、現代は「きよさ」にはまったく関心がなくなってしまった時代です。他の点ではどうでしょうか。愛については、義については。◇覚えなければなりません。罪とは、神のかたちを破壊することなのです。義も聖も、愛も寛容さも、ますます失われていく―それもものすごいスピードで―のではないでしょうか。他人事としてではなく、自分自身の姿として考えてみてください。多くの人が、得ようとするのあまり、失われていくものに目を向けようともしないのです。主イエスのことばを借りて言えば、もしからし種ほどの聖さがあったなら神を見ることが出来るのです(ヘブル12:14)。◇私たちは、自分の心の中に、聖さを取り戻さねばなりません。しかし、神を見出せるほどの聖さを、どうして自分の努力で造り出せるでしょうか。自分に頼るものには絶望しかないのです。失われたものを満たすためには新しい創造が必要です。私たちの主イエス・キリストに感謝すべきです。主は、十字架の死と、死からの復活によってそれを為し遂げてくださったのです。ローマ6:1~11。

《みことばを実践する》

2010-09-26

  また、みことばを実行する人になりなさい。自分を欺いて、ただ聞くだけの者であってはいけません。 (ヤコブ1:22)

 みことばをただ聞くだけで実行しない、それは自分を欺くことになる。これはどういう意味なのでしょう。◇このことを理解するためには、みことば(聖書)が何であるかを確認することから始めねばなりません。みことばは、キリスト教の説明でも神についての知識の情報でもありません。神ご自身の御旨の啓示です。ですから、みことばを聞くことは神の御旨を知ることになり、みことばを知っていてもそれを行わないなら、それは神にそむくことになるのです。言うまでもなく、それは、知らないで犯した罪より重いのです(4:7)。だからヤコブは<みことばを実行する人になりなさい>と命じているのです。◇もし私たちが、みことばを聞いてもそれを行わないなら、みことばはその場限りの一時的なもので終わってしまいます(23,24)。「道ばたに落ちた種」(マタイ13章)のようなものです。ヤコブは、おもしろいたとえをしています。自分がどういう顔をしてるか分かってないのです。そういう人は確実に<自分の生まれつきの顔>(罪の姿)で生活しています。クリスチャンとは、キリストのペルソナで生きる者ではないでしょうか。みことばは、それを実行することによってのみ自分のものになるのです。◇そしてみことばを実行する人は、みことばを忘れないだけでなく、<事を実行する人になります。こういう人は、その行いによって祝福されます。>(25)。信仰はよく心の問題であると言われますが、心だけの問題ではありません。このように、私たちがどのように行動するかに深く関わっているのです。祝福される人は、みことばを信頼すると同時に、そのみことばを実践する人でもあるのです。

《言動の起点は?》

2010-09-12

  また、みことばを実行する人になりなさい。・・・こういう人は、その行いによって祝福されます。 (ヤコブ1:22~25)

 自分の言動が心の何を起点として出てきているか、こんなことを考えたことがあるでしょうか。◇ヤコブは先ず、人の最も愚かな姿を明らかにします(19,20)。<怒り>です。これは説明を待つ必要がないでしょう。誰もが一度や二度、怒りに任せて事を行ってしまい、後で悔いたという経験をしているでしょう。怒りは、どんな正しい場合でも、破壊的な働きをします。特にクリスチャンの交わりにおいてそうです。人の怒りは、神の義を実現するものではない(20)。これを心に銘記しておく必要があります。だいたい怒りは、心の不満が誘因になっている場合が多いのです。◇では、私たちは、何を起点としなければならないのでしょうか。ヤコブは、それは神のみことばである、と指摘しています(21~)。まずみことばは私たちのたましいを救うことが出来ます(21)。ここでの救いは、いわゆる永遠の救いという意味ではありません。短絡的に言ってしまえば、怒りからの救いです。怒りに代表される様々な破壊的な感情からの救いです。みことばを<受け入れる>ということには、このような重要な意味があるのです。◇但し、そのためには、みことばが<心に植えつけられて>いなければなりません。これは注意しておかねばなりません。みことばが心の中になければ、それを受け入れることは出来ないからです。ましてや実行することが出来るはずがありません。ですから、日々の学びを重ねて、みことばが心の中に根付いていなければならないのです。また、言うまでもなく、<すべての汚れやあふれる悪を捨て去る>必要もあるのです。茨の中に蒔かれた種は、芽を出しても育つことが出来ないのです(マタイ13章)。

《誘惑に耐える》

2010-09-05

  試練(誘惑)に耐える人は幸いです。耐え抜いて良しと認められた人は、神を愛する者に約束された、いのちの冠を受けるからです。  (ヤコブ1:12)

 実は、試練(2,12)と誘惑(13)ということばは原語ではまったく同じことばです。◇そこで先ず、この二つのことばの意味の違いを明らかにしておく必要があります。「神が与えた試練」という言い方は成り立ちますが、「神が与えた誘惑」という言い方は絶対に成り立ちません(13)。大雑把に考えて、苦しいことや困難に対しては試練と言うことばを用い、楽しいことや快楽に対しては誘惑ということばを用いていると言ってよいでしょう。しかし、どちらにしても、信仰生活を全うして行くためには<耐える>ということが非常に重要な姿勢であることには間違いありません。◇「誘惑に耐える」ということを考えたことがあるでしょうか。この時勢、こういう生き方はまったく流行っていません。人々は楽しいことだけを追求し、欲望を満たすことを生きることの主な目的としているようです。しかし、目を覚まさねばなりません。欲望を満たすだけの人生は、やがて膿み、ただれ、腐っていくのです(14,15)。この時代にだまされないようにしなければなりません(16)。誘惑に陥ってしまい、大切な人生を棒に振ってしまったという人がけっこう身近におられるのではないでしょうか。◇試練に耐えるだけでなく、誘惑に耐えることを身に付けねばなりません。私たちのあらゆる生活の場に、誘惑が満ちているからです。私たちの欲望は、絶えず誘惑に曝され、絶えず刺激を受けているのです。欲が罪を生まないようにしなければなりません(15)。そのためには、誰もが<上から来る><すべての良い贈り物>を受ける必要があるのです(17)。今私たちに本当に必要なのは、この「神から来る賜物」なのです。


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