浦和聖書バプテスト教会

10月, 2010年

《天に宝を積む》

2010-10-24

 自分の宝は、天にたくわえなさい。(マタイ7:20)

 天に宝を積むためには、何よりも先ず、天の御国に自分のきちんとした住民票と自分名義の口座を設けなければなりません。◇多くの人が、この点で失敗しています。せっかくのよい行いも、地上にたくわえられることだけで終わってしまうのです。しかし、この地上の口座は、やがて必ず消滅していくものであることを覚えねばなりません(19)。よい行いをどんなに積み重ねても、それで天国に行けないとは、このことを意味しているのです。天に私名義の口座がないために、天に宝を積むことにならないのです。消えてしまうのです。ですから主イエスは<自分の宝を地上にたくわえるのはやめなさい。>と警告しておられるのです。◇では、どのようにして天に住民票と口座を設けることが出来るのでしょうか。神様はそれを私たちの信仰によってなしてくださるというのが聖書の約束です。エペソ書1:13,14。ここには重要な手続きが示されています。まず<救いの福音を聞く>こと、次に<それを信じる>こと、そうすると<聖霊によって証印が押される>のです。このようにして、天に口座を設けることが出来るのです。私たちは何よりも先ず、この手続きを済ましておかねばなりません。◇次に私たちは、天の口座に宝を殖やすことを楽しんで生きなければなりません。主イエスは<あなたの宝のあるところに、あなたの心もあるからです。>(21)と言われました。この地上でも貯金が殖えるのはうれしいことです。ましてや、消えることのない天の宝が殖えていくことは、私たちの生甲斐ではないでしょうか。私たちは、天の宝を殖やすためにますます励まなければなりません。一つ一つの自分の営みを、この視点から吟味し直す必要があるのではないでしょうか。効果のないもの無駄なもの、否、かえって害になるものがあるのではないでしょうか。

《悔い改めて生きよ》

2010-10-17

  

わたしは、だれが死ぬのも喜ばないからだ。―神である主の御告げ―だから、悔い改めて生きよ。  (エゼキエル18:32)

 この時代にすでにこんなにも明確に悔い改めの教理が示されいたとは驚きです。◇まず、悔い改めはまったく個別的なものであります。<罪を犯した者は、その者が死ぬ>(4)のです。v20にも同じことが語られています。どうも当時のイスラエルの人々は「父がすっぱいぶどうを食べると、その子の歯が浮く」ということわざを信じていたようです。これは因果関係を当てはめる見方ですが、実は今日でもこういう見方がなされてないわけではありません。しかし、悔い改めは、罪を犯した本人がなさねばならないことなのです。大切なことはみな代理がきかないのです。◇次に覚えたいことは、この悔い改めを主が望んでおられるということです(23)。私たちは往々にして、悔い改めなしで神の救い、神の祝福を得たいと願うものです。悪い生活を続けながら天国にも行きたいのです。しかし、それは虫のいい話です。<態度を悔い改めて>と言われていますが、まず生き方の向きを変えて出発し直さなければなりません。神様は、御自分に向かう者に答えてくださるのです。反対に、悔い改めを拒む人を悲しんでおられるのです(32)。◇最後に最も大切なこととして覚えたいことは、悔い改めによって私たちは、新しいいのち、新しい力を与えられると言う点です(31)。<新しい心と霊を得よ>と命じられています。これは不思議な神様の御わざです。克服できずにいた悪い習慣が、悔い改めることによってポロリととれたという経験はクリスチャンの証しではないでしょうか。心の霊が新しくされると、その人も、その人の生活も新しくされるのです。このようにして私たちはキリストと同じ姿に造り変えられて行くのです。アーメン。

《ダビデの苦悶》

2010-10-11

 ダビデはオリーブ山の坂を登った。彼は泣きながら登り、その頭をおおい、はだしで登った。(Ⅱサムエル15:30)

 この戦いが、非常に特殊な戦いであったことに留意しなければなりません。◇相手は、愛する息子アブシャロムなのです。この戦いを実際に進めることは、愛する息子と戦うことであり、この戦いに勝利することは愛する息子を失うことになるのです。かと言ってまた何もしないでいれば、今度は自分が殺されてしまいます。戦うに戦えず、勝利するに勝利できない。ここにダビデの苦悶があったのです。彼には、この戦いからのがれて、耐えることしか道はなかったのです。冒頭の聖書のことばは、この時のダビデの逃れる姿を描いています。◇私たちの人生にも、このような逃れ耐えることしか出来ない戦いがあるのではないでしょうか。否、肉親でなくても、人を相手にする戦いには、多かれ少なかれこのような側面があるのではないでしょうか。思いっ切り自分の力を尽くし、相手を完膚なきまで叩き潰してしまうことが出来たなら、どんなにすっきりすることでしょうか。たとえ自分が敗北したとしても、自分の力を尽くしているならそれなりの納得があるでしょう。しかし、それが出来ないのです。出来ることは、逃れること、耐えることだけなのです。◇さらに、この戦いの結末を見てください(18章)。アブシャロムは事故(神のさばき)で殺されてしまい、ダビデは勝利します。しかし、この勝利はなんとむごく悲しい勝利でしょうか。18章の最後には、ダビデの胸を引き裂くような悲痛な泣き声が記されています。この後の生涯、かれはこの癒されがたい悲しみを背負って生きて行かねばならないのです。イスラエルの王として、勝利した民に答えていかねばならないのです(19章)。

生きるということは、なんと重く悲しいことでしょうか。

《主に聞かれた祈り》

2010-10-03

 悩みを身に受けたとき、彼はその神、主に嘆願し、その父祖の神の前に大いにへりくだって、神に祈った… (歴代Ⅱ33:12、13)

 本日の箇所は、ユダ王国の歴史上最悪の王マナセが救われていく出来事が書かれています。今日は彼の祈りに注目します。何故、彼の祈りは聞かれたのでしょうか?

◇第一に、彼は他のあらゆる神々を捨て主にのみ嘆願して祈ったからです。v12〈しかし、悩みを受けたとき、彼はその神、主に嘆願し〉た、とあります。彼は悩みの中で、初めて主だけに心を向けて願い訴えました。彼は他の神々(偶像)を捨て、主に心を向けて嘆願したのです。私たちも主にだけ心を向けて祈るならば、その祈りは絶対に聞かれるのです。けれどもこれは難しい事です。何度も失敗してしまいます。しかしそれでいいのです。何度も繰り返す中で、私達の祈りは徐々にかわってくるからです。

◇第二に、マナセは神の御前に大いにへりくだって祈ったからです。v12〈彼はその父祖の神の前に大いにへりくだって、神に祈った〉とあります。マナセは悩みの中で主に嘆願しただけでなく、へりくだって祈りました。今まで神のごとく振る舞い傲慢だったマナセが、主の御前において砕かれたのです。単に「へりくだった」のではありません。「大いに」へりくだったのです。神はこのような姿を決してさげすまれません。(詩篇51:17)私達もこのように祈るなら、その祈りは聞かれるのです。

◇私達の祈りはどうでしょうか?自らの祈りをもう一度点検し、主のみに願う真にへりくだった祈りをささげたいものです。        

(文:実成先生)


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