浦和聖書バプテスト教会

11月, 2010年

《十字架を背負わせられた人》

2010-11-29

  そこへ、・・・シモンというクレネ人が、いなかから出て来て通りかかったので・・・(マルコ15:21)

 ドロローサ(悲しみの道)での、ちょっとした出来事です。◇このシモンという人にとって、これは何と偶発的な災いだったことでしょう。彼は<いなかから出てきて通りかかった>にすぎないのです。なのに<イエスの十字架を、むりやり>背負わせられる羽目になってしまったのです。私たちだったら、こんな場合何と表現するでしょう。きっと「間が悪かった」とか「運が悪かった」と言うでしょう。しかし私たちが注目しなければならない点は、ほんのひと時にしろ、主イエスの十字架を主の代わりに背負ったということです。こういう人を天の父がそのままにしておくはずがありません。◇彼の人生に何が起こったか、私たちにもみことばから充分推測できます。著者マルコはシモンのことを<アレキサンデルとルポスの父で>と紹介しています。彼のふたりの子どもをマルコはよく知っていました。また、この書の当時の読者たちも、このふたりの名を聞けばそれが誰であるかすぐ分かったのです。ということは、シモンとその家族とは救われて教会に加えられていたクリスチャンだったのです。◇シモンに何が起こったか、もう少し想像をたくましくしてみましょう。まず彼は十字架を背負いながら、すぐ傍らに主イエスを見たのです。さらに、ゴルゴタの丘での一部始終を見定めることになったのです。彼が主イエスを受け入れないわけがありません。むりやりであっても、主の十字架を負わされることによって、救いに預かることが出来たのです。これ以上の祝福はないではありませんか。しかも最後に覚えたいことは、私たちの負う十字架はゴルゴタまでであって、ゴルゴタでは、その十字架をすべて主が引き受けられるのです。ゴルゴタは、私たちに永遠の解放をもたらしたのです。

音声データ

《十字架の秘義、神の知恵》

2010-11-21

  ・・・こうして神ご自身が義であり、また、イエスを信じる者を義とお認めになるためなのです。 (ローマ3:26)

 正しい人を義と認めるのは当たり前です。しかし神は、罪ある私たちを義と認めてくださったのです。ここに十字架の秘義があります。◇神様は絶対的に義なるお方ですから、私たちの罪をきちんと処罰しなければなりません。もしあやふやにしたり目をつぶったりして罪を赦してしまえば、それは不正を行ったことになり、神様は義なるお方ではなくなってしまいます。身近な例で少し説明できるでしょう。もしおまわりさんが、罪を犯して捕まった犯人が自分の親友だというので許したとしたら、それはとんでもない不正です。ただちに警察官をやめねばなりません。変な言い方になりますが、神様は自分が神であることをやめることは出来ないのです。◇ここに、どうしても御子の十字架が必要だったのです。十字架のない赦しは不正です。罪が処罰され償われていないのに、どうして赦すことが出来るでしょう。何の根拠もない赦しは、何の効力もない赦しです。主イエスの十字架がなかったなら、神の赦しは絵空事でしかないのです。しかしイエス・キリストは、私たちの犯した罪の全責任を引き受けてくださり、神のさばきを受けてくださったのです。十字架で罪は裁かれ、神の義が貫かれているのです。◇改めて、十字架における神の知恵を覚えねばなりません。十字架は、さばきと赦しという真っ向から対立する二つの課題を見事に一つに整合しているのです。さばきが赦しであり、赦しがさばきなのです。罪ある者を義と認める方法はこれしかありません。後にパウロは、次のような感嘆の声をあげます。<ああ、神の知恵と知識との富は、何と底知れず深いことでしょう。>(ローマ11:33)十字架の秘義こそ神の知恵なのです。アーメン。

《行いでなく信仰によって》

2010-11-15

  人が義と認められるのは、律法の行いによるのではなく、信仰によるというのが、私たちの考えです。  (ローマ3:28)

 主イエスが十字架につくまでのイスラエルは、ほとんどの人が「律法を行うことによって救われる」と考えていました。代表するのがパリサイ人でした。◇実は、この書を記したパウロも、典型的なパリサイ人でした(ピリピ3:3~6)。ところが主イエスによって救われて分かったことは、律法はかえって罪を示すものだ、という神の御旨です(ローマ3:20)。律法は決して悪いものではありませんが、それを行うことによって救われると考えていたところに、彼らの致命的な誤りがあったのです。律法を行うことで救われるなら、主イエスも主イエスの十字架も必要なくなるのです。◇しかしこの考えは、私たち日本人の心にもあるのではないでしょうか。善いことをしていれば、死んだ後きっとよいところに行ける。こう考えている人は多いのです。日本人の楽観主義です。よもや自分が地獄に行くなどとは露だに考えていないのです。私たちは改めて、聖書の示す人間の真実な姿に目を留めねばなりません。<律法を行うことによっては、だれひとり神の前に義と認められない>のです。問題は、私のすべてを神が義と認めてくださるかどうか、なのです。神が義と認めてくださらない者が天の御国に入ることは絶対にないからです。◇そこで信仰です。すでに御子イエス・キリストによって贖いが済んでいるのですから、これに拠り頼む者を神は救われるのです。これを神がは定められたのです。ですから信仰は、神の存在を認めること以上のことを意味しています。それは、御子の贖い、即ち十字架の死と、死からの復活を受け入れることなのです。受け入れた時、キリストの義が私に転嫁されるのです。

《罪と救いの神学》

2010-11-07

  ・・・ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです。 (ローマ3:24)

 先週の続きです。このv24には、神の救いがいかなるものかが端的明瞭に語られています。◇まず救いは<ただ神の恵みにより>と言われています。<ただ>とは、「ただこれだけ」の意で、他にどんな方法もないという意味です。二つの面から学んでおかねばなりません。ひとつは、私たち人間は、その罪の性質のゆえに、自力で救いを達成することは出来ないという点です。もうひとつの面は、背神の罪人を救うためには、神様の側でも恵を働かせる以外になかったという点です。神ご自身の義と公平という属性を貫くには、愛とあわれみという属性を優るものとしなければならなかった、ということです。神の恵みとは、愛とあわれみと赦しなのです。◇次に注目したいのは、救いの手段です。<キリスト・イエスによる贖いのゆえに>と言われています。キリストの十字架の御わざです。背神の罪は、何時か何処かでさばかれねばなりません。神様は義を貫かねばならないからです。私たちは一足飛びに「十字架=救い」と考えてはなりません。先ず神様は、御子を私たちの身代わりにとして死刑にすることで、背神の罪を最後的かつ完全に処罰されたのです。私たちの犯したすべての罪は御子に負わされたのです。だから私たちは赦されるのです。◇最後に注目したいのは<価なしに義と認められる>ということばです。罪は償われ処罰されて義と認められるものです。キリストの十字架は、これを一度で成し遂げてくれたのです。だから<価なしに>と言われています。これは「何の支払いも犠牲もなしに」という意味です。必要なことはすべて主イエスが成し遂げてくださったのです。だから私たちも義と認められるのです。

《特別集会に寄せて》

2010-11-07

  すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず・・・   (ローマ3:23)

 聖書で言うところの「罪」とは、神様に従わないこと、背くことを意味しています。◇従って先ず第一に注意しておかねばならないことは、いわゆる社会通念としての罪とはその意味が大きく異なっているという点です。要するに、この社会でよしとされていることでも、それが神様に従っていないならば罪なのです。絶対主権者であられる神の前で罪なのです。この視点に立ってみれば、<すべての人は、罪を犯した>という聖書の言及を、誰も否定できないでしょう。私たちの日常の生活を振り返ると、当たり前のようになしていることのほとんどが、神に従ってなされていないからです。◇日本人には罪意識がないと言われる所以がここにあります。自分の言動を社会通念としての規準でしか測っていないのです。もともと日本人の心には、絶対者という人格的な存在がいません。自分の言動の是非を決めるのは周囲の人々(社会)なのです。だから、周囲がよしとしてくれれば何をしてもよいのです。「他人に迷惑をかけなければそれでよい」という規準もここから来ていると言えるでしょう。ですから、真面目に社会生活を送っている人は、自分が罪人であるとはとても認め難いのです。◇しかし、絶対主権者であられる神の前でどうなのか、こういう視点から自分を見つめ直す必要があるのではないでしょうか。<神からの栄誉を受ける>ためには、まず神に従う必要があるのです。他人からは何の非難を受けなくても、神様に従っていないなら、それが罪なのです。神様を意識しないで、即ち神様を無視してなしていることが罪なのです。私たちが神からの栄誉を受けられなくなっている理由は、これがすべてで、これしかないのです。


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