浦和聖書バプテスト教会

12月, 2010年

《この一年を振り返って》

2010-12-26

  心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りに頼るな。・・・そうすれば、主はあなたの道をまっすぐにされる。  (箴言3:5,6)

 私たちはこの聖句をもってこの年を歩んできました。この一年を閉じるに当たって、自分の歩みを思い返し、歩んできた道を振り返ってみることは、新しい年に向かうためにも大切なことではないでしょうか。◇自分の来し方を振り返って、辿って来た信仰の道が<まっすぐ>続いているのを確認できる人は幸いです。新しい年も、その道を<まっすぐ>歩んで行ってほしいと思います。しかし、そのみちが曲がりくねっていたり、途中で消えてしまっているのを見るならば、まずその原因をきちんと捉えておくことが大切でしょう。信仰の迷路に踏み込んでしまったり、信仰の破船(Ⅰテモテ1:9)に会ったりする理由はそんなに多くあるのではありません。◇ひとつは、<自分の悟り>に頼ってしまい<主に拠り頼む>ことを忘れてしまったからです(5)。恐らく誰もが経験してることでしょうが、「自分の考え」と「主のみ教え」とが食い違う場合が生じます。信仰と従順が問われるのはその時です。多くの人の失敗は、そんな時自分の考えを優先してしまっているところにあるのです。私たちは改めて<心を尽くして>主に拠り頼むことを学ばねばなりません。◇もうひとつの理由は、自分の置かれている状況に動かされてしまい、<主を認める>ことをしないからです(6)。時々私たちの心の中にはこんなつぶやきが聞こえてきます。「主がおられるなら、なんだってこんな状況になるんだ。」不信仰に誘うサタンの巧言に耳を貸してはなりません。私たちの主は、絶対に私たちを見放すようなお方ではありません(詩121)。改めて<行く所どこにおいても>主を認める信仰に立たねばなりません。新しい年も祝福がありますように。アーメン。

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《クリスマスの福音》

2010-12-19

  ことばは人となって、私たちの間に住まわれた。私たちはこの方の栄光を見た。 (ヨハネ1:14)

 これがヨハネの伝えているクリスマスです。◇ルカの伝えているクリスマスと比べると、その違いがよく分かります(ルカ2:1~7)。ルカは、起こった出来事をそのまま伝えています。比べてヨハネは、その出来事の意味を明らかにしているのです。<ことば>とは、すでに見てきたように(v1~5)、この地上に来られる前のキリストの別称です。<ことばは神であった。>と言われているお方が<人となって、私たちの間に住まわれた。>のです。ですから、私たちの知っているイエス・キリストは、神であり人でもあるお方なのです。教理上はこれを「キリストの二性一人格」と言い表しています。◇では、神であられるお方が、どうして人とならねばならなかったのでしょう。もち論、贖いという大目的が控えていることは言うまでもありません。ヨハネはこれを<恵みとまことはイエス・キリストによって実現した>(17)という暗示的な言い方にとどめています。モーセを通して与えられた律法も恵みですが、それは<与えられた>ものに過ぎず、キリストにおいてはそれが<実現した>のです。キリストの十字架と復活がそれです。◇しかもそれだけではありません。キリストはその公生涯において<神を説き明かされた>のです(18)。目に見えない神を、目に見えるように明示されたのです。後にヨハネは、その書簡の冒頭でこのことを明らかにしています(Ⅰヨハネ1:1~4)。福音書の中でも同じテーマが扱われています(ヨハネ14:8,9)。◇これは今の私たちにも当てはまることではないでしょうか。<布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりご>(ルカ2:12)に、神を見、神の救いを確認する人だけがクリスマスの福音に預かることが出来るのです。

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《クリスマスを控えて》

2010-12-12

すべての人を照らすまことの光が世に来ようとしていた。 (ヨハネ1:9)

 クリスマスは、救い主(キリスト)がこの地上に来てくださったことを感謝し喜び合うひと時です。◇ところが人間の現実は、最初のクリスマスからそうではなかったのです(v10,11)。〈この方はご自分のくにに来られたのに、ご自分の民は受け入れなかった。〉とあります。これは今日でもまったく同じではないでしょうか。この日本においても「しかり」です。キリストを知らない、きわめて身勝手なクリスマスだけがあふれているのです。救い主を〈知らない〉〈受け入れない〉クリスマスは、人間の作り出した「お祭り」に過ぎないのです。私たちは、こういうクリスマスに絶対に迎合してはならなのです。◇なぜなら私たちは〈この方を受け入れた〉者、即ち〈その名を信じた〉者だからです(v12)。私たちは、すでに〈神の子ども〉とされているのです。それなのにどうして、御父と御子(キリスト)を無視することができるでしょうか。知らないで無視することと知っていながら無視することは訳が違うのです。私たちは、クリスチャンとして誇りを持たねばなりません。クリスマスを真にお祝いできるのは、私たちだけなのです。十字架上の主イエスのいのりのみことばを想い起します。〈「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです。」〉(ルカ23:34)◇もうすぐクリスマス、そして新年。いたずらに時を経ず、与えられている〈特権〉を大いに喜びましょう。クリスチャンが、この時を除いて何時よろこぶことができるでしょう。私たちの救いは、クリスマスで始まり、十字架と復活で完成しているのです。喜ぶことにおいて何の遠慮があるでしょう。私たちは〈この方を受け入れた人々〉なのです。

《ヨハネの伝えるクリスマス》

2010-12-05

  光はやみの中に輝いている。やみはこれに打ち勝たなかった。 (ヨハネ1:5)

 ヨハネの伝えるクリスマスは、物語というよりむしろ神学的です。この最初の箇所では、地上に来られたイエス・キリストがどんなお方であるかが明らかにされています。◇まず第一に、キリストは神であられ、神とともにおられたお方であると示されています(v1,2)。古来、イエスは神なのかそれとも人間なのか、多くの議論が繰り返されてきました。今日でもそうなのかもしれません。しかし聖書は、理屈なしに、キリストは<初めに>存在なさったお方、即ち神であられると断言しているのです。<初め>とは、万物の存在以前ということで永遠を意味しています。◇第二に、キリストは万物の創造者であられると告げられています(v3)。これは聖書のこの箇所だけではありません(コロサイ1:15,16)。もち論、万物と言うとき、私たち人間も含まれていることを忘れてはなりません。人間の最も大きな罪は、この世界と自分たちの創造者を認めないことです。この世界は自然発生したのではなく、人間も自力で存在するようになったのではないのです。◇第三に、この方にいのちがあり、このいのちこそ人の光であるということです(v4)。従ってキリストのいのちを持つ者は、人生を照らす光を持っているのです。光はいのちであり、希望であり、やみに潜むすべての危険を明らかにしてくれるのです。<光はやみの中に輝いている。>とあります。ますますやみが濃くなっていく時代を生き抜くために、私たちにはこの光が必要なのです。<やみはこれに打ち勝たなかった。>とも記されています。ベツレヘムの家畜小屋に生まれた小さな光は、やみに葬られることなく、今ますます輝きを増しているではありませんか。偽りの光は消え失せ、まことの光だけが輝いているのです。ハレルヤ。

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